本、読み終えた。へルマン・ヘッセ『春の嵐-ゲルトルート-』
青春は誰にでも流れうるものだし流れたものだと思いますが、そのことを自覚するのは難しいと思います。それはかの喜劇王チャップリンが遺したように、
Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.
人生はクローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットだと喜劇である。
という言葉にうかがい知ることができると思います。
人は自分が幸福だと感じるには、現状に向き合う必要があります。自分というフィルム撮影を一度カットするのです。編集前の撮影にOKが出せれば、編集をして綺麗なロングショットにできるわけです。
納得がいかなければそのシーンのみを何度も撮り直さなければなりません。短いシーンを何度も観るのはウンザリです。そのうち、何を撮りたかったのかわからなくなってしまって、編集の力でことを済ませるようになるのです。人はあの手この手で人生を編集していくのです。
人生という映画撮影では、どこでカットをいれるべきなのでしょうか?本書は青春という要素で主人公クーンがカットをいれています。これは主人公クーンが自分の人生に区切りをつける話でもあるのです。
「青春」を調べると「若く元気な時代」を指す言葉、または「春を表す」言葉だとおよそ説明されています。若さからくる元気というのは法律やルール、掟などを悪気もなく、かつ誰もがやるかもしれない方法で破る際限のない力です。すなわち純粋な感情か、熱情か。本書は後者です。
あまりこういう表現は好まないのですが、本書は主人公の男クーンがフラれて、その後フッた女性ゲルトルートが結婚した相手ムオトと共にヤンデレ化して、共依存になって崩壊していく様を友情を感じつつも傍観する話です。
すごくぶっきら棒に書きましたが、主題は何をもって幸福とするかです。
- 人は孤独な状態で幸福になれるか?
- 人は何かにすがらないと幸福になれないのか?
小説において登場人物が幸福か不幸に二転三転するというのは、当たり前のように思います。それでも読後感では本書の登場人物の幸福と不幸がとても印象に残っています。
逆にその他のエピソード(主人公クーンが音楽家として成り上がっていく展開など)が相対的に薄く感じるくらいです。それだけ登場人物たちの色恋沙汰が激しかったとも言えます。熱情を持っていたのはクーン、ゲルトルート、ムオトだけではありませんでしたから。
主人公クーンは、あるいはその友人ムオトとの会話は人生の過ごしにくさを吐露するシーンが散見されます。
(主人公クーン)どこに享受と高揚と輝きと美とを求めても、私はただ要求と規則と義務と障害と危険を見いだすばかりだった。p12
(主人公クーン)私には人間の生活というものは深い悲しい夜のように思われる。それは、ときおりいなびかりでもきらめくのでなかったら、耐えられないものであろう。p151
(ムオト)そりゃ慰めるか麻酔さすものがあったらから、やってこられたんだ。それはあるときは女であり、あるときは親しい友だちだった。ーーそうだ、きみもその働きをしてくれたんだーーあるときは音楽、あるときは劇場の拍手だった。ところがいまはもうそういうものはぼくを喜ばさないんだ。p223
(ムオト)ぼくは仏陀と同様、人生は空だと信じている。しかしぼくは感覚に快いように、感覚が主要事であるかのように暮らしている。それでもっと楽しくいけばいいんだが。p228
主人公クーンとムオトは原因も時も違えど困難に行き当たっていたことがわかる。そう、誰でも抱えることがあるような……。しかし結果は大きく違ってしまいました。
理由はなぜでしょう?それは答えられません。なぜなら主人公クーンが本書で言うように、
人間はなにものであって、なにを体験するか、また人間はいかにして生長し、病み、死ぬかということは、物語りえないことである。
読後は自省せずにはいられません。
あのときは楽しかった。あれは可笑しかった。あの子は可愛かった。アイツはカッコよかった。
あのときは失敗だった。何故あのときあんなことをしたのだろう?
そして、これからどうしよう……。
私は実存主義者の名言に心惹かれるものがあります。例えばニーチェの「危険に生きよ」であったり、ハイデガーの「死を想え」などです。私の幸福の必要条件に「物質的充足」はないのでしょう。
さて、どうしよう。青春は過ぎ去ってしまいました。