On bullshit

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本、読み終えた。澁澤龍彦『少女コレクション序説』

 

少女コレクション序説 (中公文庫)

少女コレクション序説 (中公文庫)

 

 

本書目次

少女コレクション序説

人形愛の形而上学

アリスあるいはナルシシストの心のレンズ

犠牲と変身

東西春画

セーラー服と四畳半

インセスト、わがユートピア

幻想文学の異端性について

 

ポルノグラフィーをめぐる断章

近親相姦、鏡のなかの千年王国

処女生殖について

ベルメールの人形哲学

ファンム・アンファンの楽園

幼児体験について

コンプレックスについて

宝石変身譚

エロスとフローラ

鏡について

匂いのアラベスク

玩具考

マンドラゴラについて

シモンの人形(あとがきにかえて)

 

本記事目次

いやらしいと美しい

線引きは個人で

本書は愛の総覧

どうして人間以外のものに人間的愛が注がれるか

 

 

いやらしいと美しい

     私が大学生だった頃、憲法のゼミを取っていた知り合いが懸命に取りかかっていた論文のテーマは、二次的表現の規制に関することでした。つまりどこからが健全な二次表現で、どこからが取り締まるべき卑猥な二次表現であるのかということです。

当時は都条例で二次表現の規制をするということでその規制のあり方が漫画家などからも批判されていた時期でした。

 

    女性キャラクターの胸が卑猥であるならば、全ての女性キャラクターは貧乳でなければアウトになってしまいます。ひいてはそれは現実の豊満なボディーの女性を、存在するだけで卑猥だとすることに他なりません。それは規定することによって女性そのものを卑猥とすることになるのです。

「貧乳はステータスだ。希少価値だ!」と言う輩もいるわけですし。「これもうわけわかんねぇな」となるのは必至です。

    パンツはどうでしょう。『サザエさん』に登場するワカメちゃんは完全にパンツ丸出しではないか。ワカメちゃんのパンツ出しはよくて、他のアニメのパンツ出しはなぜ咎められるのか。

    はたまた芸術作品はどうであろう。ワカメちゃん以上に性的表現が露骨に出ています。女性の裸を絵画のテーマにするのはかなり批難を浴びた時期があります。それでも今はそれらも含めた美術作品が美術展で日の目を浴びています。絵画と二次は何が違うのか。日本独特の二次的表現だけを露骨に規制するようであり、しかも卑猥・性的表現などの言葉の定義が曖昧なまま法規制が進められている。創造する権利を奪うものだと……。

そういう話がありました。

    そして今やレースクイーンまでもがいなくなるようになってしまいました。女性が女性特権の職業を奪うなんて滑稽です。

 

 

線引きは個人で 

    性を扱う作品に性的表現と美的表現があるのは確かでしょう。しかし内容が現在の犯罪(強姦罪青少年育成条例に違反するなど)を助長する行為、あるいはそれらが行われている作品でない限りは、規制は検閲行為になります。その検閲行為が検閲者のさじ加減になることは言うまでもありません。

    たとえば文学作品や美術作品、古代ギリシアの時代から男色とレズビアンがあったことを知っている検閲者は、それらがテーマの作品に出版許可を与えるかもしれません。LGBT否定派であれば言わすもがな。

    性と美に明確な線引きができない以上、現行法に抵触する行為を誘引またはそれ自体を実現している作品を出版社側が止めるしかないのではと、私には思われます。つまりは道徳的な判断です。

    もっとも昔話が古今東西を問わず、実はグロテスクで残酷なシーンがあるのは「どこそこへ行かないように」「これこれな行為はしないように」というメッセージ性を強調するためにわざと脚色されたという可能性としての説を付加すれば、準強姦罪・痴漢被害程度のものまでは表現としては許容すべきであるというのは私の論です。

 

 

本書は愛の総覧

 

    なかなか話が反れましたが、澁澤龍彦さんは結婚しても子供を産まない理由を「娘だったら近親相姦しちゃうから」と本書で記しています。

えぇ……(困惑)

    とは言え、一定の理解があります。私自身は町中で父親が小学生の娘さんを抱っこしているところを見ると、表現に苦慮しますが「二重の性愛」を感じずにはいられません。

    愛する人と結婚して娘・息子ができるということは、ある意味愛する人から分流したもう一つの愛の対象が自分の目の前で、産まれたときから人生を開始する様を見られる特権を獲得できることではないかと。

    『少女コレクション序説』では現代でタブー視されている近親相姦や同性愛といったことも書かれれていますが、それも分流した愛の形だと思っています。決して本の表紙とタイトルとを見て人形愛だけの偏愛作品だと思ってはいけません。様々なパターンの「愛」を見学できるのが本書の認識であるべきです。古典からも多く引用されており、面白いですよ。

 

 

どうして人間以外のものに人間的愛が注がれるか

 

  人形愛に関しては、本書で筆者が書いている通りナルシシズムがあるでしょう。自己の理想を人形という鏡、あるいは器に投影するということです。人形で再現できるものは人間ではできません。目や髪の色を見た目だけ変えられるにすぎません。元からそっくりそのまま入れ替えることはできません。整形にも限界があります。

 しかし人形は中身がないから代替可能です。ベルメールの作品のように人形の胴体から上下に足が2本ずつ生えているような人形(?)を製作することもできます。ベルメールは女体の性的な各部分を組み替えることで、新たなる性感帯を探求したのだそうな。

 

 植物が愛らしい処女になるというのも万国共通としてあるらしい。

 アレクサンドロス大王の兵士がインドに近いところで、魔法の森に入った。すると全ての木の下には一糸纏わぬ処女が美しい姿態を晒して立っている。ここは隔離された森で、勇敢な兵士しか入れないようになっている。しかも処女たちから兵士を誘う。

 かのアレクサンドロス大王も気に入った処女を馬の鞍に乗せて連れ帰ろうとしたが、処女たちも植物であり、この森を出ると途端に枯れてしまうという。兵士たちはすごく悔しがりながら森を立ち去ったという。

 日本でも『竹取物語』や『桃太郎』で植物から美しい姫や強い男児が産まれる話があるので、なかなか夢がある話だと思います。ヨーロッパでも果実から処女や羊が現れる話があるようです。

 

 こういったことから、人間ではないものから人間に模して美しく造るという行為はなぜ行われるのか。それは考えるに、理想と現実を繋ぎとめておくものではないのかなという気がします。

 理想とは現代においては少し冷笑的、あるいは陳腐ささえ伴っているように感じる言葉です。理想の対人となるとそれは無いに等しいものかもしれません。理想の美しい人を、現実に存在している別の美しい対象(草や花)に置換して実現させようとする行為なのです。

 男性がおよそカッコいい色や服、女性が可愛らしい色や服を好んで身に纏うのも、そうすることでナルシーな自己実現を果たそうとするものではないかと思います。

 墓の副葬品として人形が出土することがありますが、それはお供とか寂しくないようにするためとかが理由のものもあるので、それとは全く別です。

 

 本書は人ではないものをどうやって人として愛してきたかが断片的にわかる面白い本だと思いますよ。

 

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