On bullshit

読書感想文、社会評論、その他を自分勝手に。

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本、読み終えた。新田次郎『孤高の人』

 

孤高の人〈上〉 (新潮文庫)

孤高の人〈上〉 (新潮文庫)

 
孤高の人〈下〉 (新潮文庫)

孤高の人〈下〉 (新潮文庫)

 

 

 

 漫画の方の『孤高の人』ではなくて、新田次郎の方の『孤高の人』です。

どちらも実在した日本山岳界の伝説とも言うべき、加藤文太郎をモデルにしています。しかし主な筋道だけが一致しているのみで、どちらも忠実に再現しているわけではありません。

とはいえ今回読んだ新田次郎孤高の人』は加藤文太郎の妻花子さんら周辺の人物にも取材をしており、ヤングジャンプコミックス発行の『孤高の人』は新田次郎孤高の人』を参考に再現をしたということです。

新田次郎孤高の人』も取材してはいますが、筆者の想像で書かれているシーンが多数ありますので、加藤文太郎を知るには加藤文太郎が書いたものを読むのが一番です。

 

 加藤文太郎とは簡単に言うと、山歩きがすごい速い人でした。そして単独行にこだわる人でした。数々の単独行記録を樹立しましたが、妻花子と出産予定の子のために最後のパーティー、最後の冬山に挑みましたが、行方不明後遺体で発見されます。

 

 

元から単独行が好きな人にとっては複雑

 

 単独行にこだわる加藤文太郎の気持ちはすごくわかります。山やっている人なら、今日は単独で、という気持ちは必ず沸き起こるものだと思っています。

加藤はなぜ山に登るのか、自問自答するようになります。

私の場合は「自分の命を認めたい」です。

 人間社会で仕事にも人にも馴染めないでいます。人間社会で自分の存在価値を認めてあげるのはとても難しい状態です。非正規ですし。

 でも人間はそもそも人間社会で生きているのではない。地球で生きている。自然の中で生きている。有象無象の生物達と一緒に生き抜いている。その中に、自分の命をそっと入れてみる。

するとどうだろう。なかなか馴染むではないか。蚊は寄ってくるし、捕まえたカマキリは私の汗を吸っている。鹿は遠くから目を光らせている。藪漕ぎをして腕も足も擦り傷だらけだ。命と命が触れ合っている。

(今の仕事社会でそんなことが感じられるだろうか?)

 私は生きている。ここにいる人間も一つの命としてカウントできる。自分の命が輝いている!

大事な確認作業です。

下山すると、その命がかき消される思いです。もみくちゃの人混みからとりあえず抜け出て一休みしたいような。それが今の、私にとっての登山です。

 

 しかし加藤はそこから抜け出ます。加藤は花子さんを娶ります。極端に独りの状態から一気に社会的地位を獲得します。そしてその揺れ動きによって、つまりは独りの時にしてきた過去・行動・実績が仇となります。

 

 孤独に登山する人は複雑な思いを持つはずです。やはり単独が一番!と思っても、それが何の役に立つのかわからない。最も単純化すれば何日間もただ独りで歩いただけ。それは全く理解がない人から見れば通勤・通学の延長のようなものに写るでしょう。

ときには「今日、死ぬかもしれない」という体験も、数をこなしていれば遭遇するものです。

でも高い金を払ってでも単独で山に行くというのは、必ずその人の思想が反映されているはずです。

 私もそうですが、社会的に孤独な人にとって単独行は更に独りになりに行くという、ある意味加藤文太郎が歩んだ極端な行動になってしまっています。そして社会的地位を獲得できるとき、それは障壁となって現れます。

そんなことはわかっている。それでもいい。いや…。でも。

 

 

ジブリの『風立ちぬ』みたいな感触

 

 時代背景もほぼ同じ、そして職業も似ていることから私は『風立ちぬ』を思い起こしました。

「生きねば。」

 

風立ちぬ [DVD]

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山に対してどうするか考えさせられた

 

 本書を読んだ最初の動機は、自分と同じく単独行をする人はどんな人だったのか知りたかったから。

そして今は山にどれほど入るべきなのか。どのような形で付き合っていくべきか。ということ。

人間は一人では生きていけないように、道を狭めて歴史が進みました。そんななか単独というのはどのような意義があるのか。考えたいと思います。

 

 

新編 単独行 (ヤマケイ文庫)

新編 単独行 (ヤマケイ文庫)

 
ドキュメント 単独行遭難 (ヤマケイ文庫)

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死に至る病 (岩波文庫)

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本、読み終えた。澁澤龍彦『少女コレクション序説』

 

少女コレクション序説 (中公文庫)

少女コレクション序説 (中公文庫)

 

 

本書目次

少女コレクション序説

人形愛の形而上学

アリスあるいはナルシシストの心のレンズ

犠牲と変身

東西春画

セーラー服と四畳半

インセスト、わがユートピア

幻想文学の異端性について

 

ポルノグラフィーをめぐる断章

近親相姦、鏡のなかの千年王国

処女生殖について

ベルメールの人形哲学

ファンム・アンファンの楽園

幼児体験について

コンプレックスについて

宝石変身譚

エロスとフローラ

鏡について

匂いのアラベスク

玩具考

マンドラゴラについて

シモンの人形(あとがきにかえて)

 

本記事目次

いやらしいと美しい

線引きは個人で

本書は愛の総覧

どうして人間以外のものに人間的愛が注がれるか

 

 

いやらしいと美しい

     私が大学生だった頃、憲法のゼミを取っていた知り合いが懸命に取りかかっていた論文のテーマは、二次的表現の規制に関することでした。つまりどこからが健全な二次表現で、どこからが取り締まるべき卑猥な二次表現であるのかということです。

当時は都条例で二次表現の規制をするということでその規制のあり方が漫画家などからも批判されていた時期でした。

 

    女性キャラクターの胸が卑猥であるならば、全ての女性キャラクターは貧乳でなければアウトになってしまいます。ひいてはそれは現実の豊満なボディーの女性を、存在するだけで卑猥だとすることに他なりません。それは規定することによって女性そのものを卑猥とすることになるのです。

「貧乳はステータスだ。希少価値だ!」と言う輩もいるわけですし。「これもうわけわかんねぇな」となるのは必至です。

    パンツはどうでしょう。『サザエさん』に登場するワカメちゃんは完全にパンツ丸出しではないか。ワカメちゃんのパンツ出しはよくて、他のアニメのパンツ出しはなぜ咎められるのか。

    はたまた芸術作品はどうであろう。ワカメちゃん以上に性的表現が露骨に出ています。女性の裸を絵画のテーマにするのはかなり批難を浴びた時期があります。それでも今はそれらも含めた美術作品が美術展で日の目を浴びています。絵画と二次は何が違うのか。日本独特の二次的表現だけを露骨に規制するようであり、しかも卑猥・性的表現などの言葉の定義が曖昧なまま法規制が進められている。創造する権利を奪うものだと……。

そういう話がありました。

    そして今やレースクイーンまでもがいなくなるようになってしまいました。女性が女性特権の職業を奪うなんて滑稽です。

 

 

線引きは個人で 

    性を扱う作品に性的表現と美的表現があるのは確かでしょう。しかし内容が現在の犯罪(強姦罪青少年育成条例に違反するなど)を助長する行為、あるいはそれらが行われている作品でない限りは、規制は検閲行為になります。その検閲行為が検閲者のさじ加減になることは言うまでもありません。

    たとえば文学作品や美術作品、古代ギリシアの時代から男色とレズビアンがあったことを知っている検閲者は、それらがテーマの作品に出版許可を与えるかもしれません。LGBT否定派であれば言わすもがな。

    性と美に明確な線引きができない以上、現行法に抵触する行為を誘引またはそれ自体を実現している作品を出版社側が止めるしかないのではと、私には思われます。つまりは道徳的な判断です。

    もっとも昔話が古今東西を問わず、実はグロテスクで残酷なシーンがあるのは「どこそこへ行かないように」「これこれな行為はしないように」というメッセージ性を強調するためにわざと脚色されたという可能性としての説を付加すれば、準強姦罪・痴漢被害程度のものまでは表現としては許容すべきであるというのは私の論です。

 

 

本書は愛の総覧

 

    なかなか話が反れましたが、澁澤龍彦さんは結婚しても子供を産まない理由を「娘だったら近親相姦しちゃうから」と本書で記しています。

えぇ……(困惑)

    とは言え、一定の理解があります。私自身は町中で父親が小学生の娘さんを抱っこしているところを見ると、表現に苦慮しますが「二重の性愛」を感じずにはいられません。

    愛する人と結婚して娘・息子ができるということは、ある意味愛する人から分流したもう一つの愛の対象が自分の目の前で、産まれたときから人生を開始する様を見られる特権を獲得できることではないかと。

    『少女コレクション序説』では現代でタブー視されている近親相姦や同性愛といったことも書かれれていますが、それも分流した愛の形だと思っています。決して本の表紙とタイトルとを見て人形愛だけの偏愛作品だと思ってはいけません。様々なパターンの「愛」を見学できるのが本書の認識であるべきです。古典からも多く引用されており、面白いですよ。

 

 

どうして人間以外のものに人間的愛が注がれるか

 

  人形愛に関しては、本書で筆者が書いている通りナルシシズムがあるでしょう。自己の理想を人形という鏡、あるいは器に投影するということです。人形で再現できるものは人間ではできません。目や髪の色を見た目だけ変えられるにすぎません。元からそっくりそのまま入れ替えることはできません。整形にも限界があります。

 しかし人形は中身がないから代替可能です。ベルメールの作品のように人形の胴体から上下に足が2本ずつ生えているような人形(?)を製作することもできます。ベルメールは女体の性的な各部分を組み替えることで、新たなる性感帯を探求したのだそうな。

 

 植物が愛らしい処女になるというのも万国共通としてあるらしい。

 アレクサンドロス大王の兵士がインドに近いところで、魔法の森に入った。すると全ての木の下には一糸纏わぬ処女が美しい姿態を晒して立っている。ここは隔離された森で、勇敢な兵士しか入れないようになっている。しかも処女たちから兵士を誘う。

 かのアレクサンドロス大王も気に入った処女を馬の鞍に乗せて連れ帰ろうとしたが、処女たちも植物であり、この森を出ると途端に枯れてしまうという。兵士たちはすごく悔しがりながら森を立ち去ったという。

 日本でも『竹取物語』や『桃太郎』で植物から美しい姫や強い男児が産まれる話があるので、なかなか夢がある話だと思います。ヨーロッパでも果実から処女や羊が現れる話があるようです。

 

 こういったことから、人間ではないものから人間に模して美しく造るという行為はなぜ行われるのか。それは考えるに、理想と現実を繋ぎとめておくものではないのかなという気がします。

 理想とは現代においては少し冷笑的、あるいは陳腐ささえ伴っているように感じる言葉です。理想の対人となるとそれは無いに等しいものかもしれません。理想の美しい人を、現実に存在している別の美しい対象(草や花)に置換して実現させようとする行為なのです。

 男性がおよそカッコいい色や服、女性が可愛らしい色や服を好んで身に纏うのも、そうすることでナルシーな自己実現を果たそうとするものではないかと思います。

 墓の副葬品として人形が出土することがありますが、それはお供とか寂しくないようにするためとかが理由のものもあるので、それとは全く別です。

 

 本書は人ではないものをどうやって人として愛してきたかが断片的にわかる面白い本だと思いますよ。

 

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読書は鎮痛剤

    慢性疲労や精神的な衰弱、未来に対する不安、イラつきなど、精神状態が安定しないというのは現代病にまで進化してしまいました。いろいろ栄養素を摂れとか、運動しろとか、単に休めとか対処法は書籍・雑誌・ネットの海に、まるでマイクロプラスチックのように漂っています。

 

    私はそんなゴミの山から、手短にイラつきや不安を和らげる方法を一つ拾い上げています。読書です。事実読書は精神を落ち着かせる効果があるそうな。

    人間はコミュニケーションをすることで自然から身を守り、糧を得てきました。読書はその延長や代替手段として考えるならば、人間に備わっているビルトイン・スタビライザーと言えるわけです。

 

    難しい学術書よりも小説などをおすすめします。この記事を書いているときに読んでいたのは澁澤龍彦さんの『少女コレクション』でしたが、前に読んだリラダン未来のイヴ』やフーケー『水の妖精ーウンディーネー』などが引き合いに出されていて示唆に富むものだと感じています。自分が気楽に読めるものであればなんでもいいのです。

 

    話が変わりまして、私は読書をするとすぐに具体的なイメージが浮かんできて映画が上映され意識がトリップするのですが、これは現実から旅立つのに役立っています。何年も前に読んだ小説でも、主要なシーンは文章ではなく映像で再生できます。当たり前の作業だと思いますが、自分は時々それを思い返すのが好きなのです。

    その材料となっているのは、

  • 映画化された文学作品
  • 西洋建築や服飾の写真集やそれらの歴史書
  • 西洋人の顔

などです。

    もちろん突き詰めればおかしな点はボロボロ出てきますが、文章で覚えるのが苦手な私にとってこれが最善なのです。

 

    現実逃避の一種でもあるでしょうが、現実逃避は誰もがやる人生の乗り越え方だと思います。罪悪感はありません。むしろ苦しみから抜け出せないままのほうが罪というもの。エスケープしてやれっ。

    まだ私は生きている。無間地獄にいるわけではありません。壁は上に空間があるから壁と呼ぶのであり、従って乗り越えられないということはない。穴は行き止まりがあるから穴であり、トンネルは向こう側に出られるからそう呼ぶ。際限のないものをト・アペイロンとか無限とか言いますが、そのような種類にあまり単語はありません。すなわち多くのものは有限なのです。

    悩みもいつか露と消える。一時だけでも読書でもして、現実逃避してみてもいいではないか。

    とかなんとか口を滑らせてまた紙をめくるのであった。

本、読み終えた。へルマン・ヘッセ『春の嵐-ゲルトルート-』

 

春の嵐―ゲルトルート (新潮文庫)

春の嵐―ゲルトルート (新潮文庫)

 
春の嵐 (1950年) (新潮文庫)

春の嵐 (1950年) (新潮文庫)

 

 

    青春は誰にでも流れうるものだし流れたものだと思いますが、そのことを自覚するのは難しいと思います。それはかの喜劇王チャップリンが遺したように、

Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.

人生はクローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットだと喜劇である。

という言葉にうかがい知ることができると思います。

 

    人は自分が幸福だと感じるには、現状に向き合う必要があります。自分というフィルム撮影を一度カットするのです。編集前の撮影にOKが出せれば、編集をして綺麗なロングショットにできるわけです。

    納得がいかなければそのシーンのみを何度も撮り直さなければなりません。短いシーンを何度も観るのはウンザリです。そのうち、何を撮りたかったのかわからなくなってしまって、編集の力でことを済ませるようになるのです。人はあの手この手で人生を編集していくのです。

    人生という映画撮影では、どこでカットをいれるべきなのでしょうか?本書は青春という要素で主人公クーンがカットをいれています。これは主人公クーンが自分の人生に区切りをつける話でもあるのです。

 

    「青春」を調べると「若く元気な時代」を指す言葉、または「春を表す」言葉だとおよそ説明されています。若さからくる元気というのは法律やルール、掟などを悪気もなく、かつ誰もがやるかもしれない方法で破る際限のない力です。すなわち純粋な感情か、熱情か。本書は後者です。

 

    あまりこういう表現は好まないのですが、本書は主人公の男クーンがフラれて、その後フッた女性ゲルトルートが結婚した相手ムオトと共にヤンデレ化して、共依存になって崩壊していく様を友情を感じつつも傍観する話です。

    すごくぶっきら棒に書きましたが、主題は何をもって幸福とするかです。

  • 人は孤独な状態で幸福になれるか?
  • 人は何かにすがらないと幸福になれないのか?

 

    小説において登場人物が幸福か不幸に二転三転するというのは、当たり前のように思います。それでも読後感では本書の登場人物の幸福と不幸がとても印象に残っています。

逆にその他のエピソード(主人公クーンが音楽家として成り上がっていく展開など)が相対的に薄く感じるくらいです。それだけ登場人物たちの色恋沙汰が激しかったとも言えます。熱情を持っていたのはクーン、ゲルトルート、ムオトだけではありませんでしたから。

 

    主人公クーンは、あるいはその友人ムオトとの会話は人生の過ごしにくさを吐露するシーンが散見されます。

 

(主人公クーン)どこに享受と高揚と輝きと美とを求めても、私はただ要求と規則と義務と障害と危険を見いだすばかりだった。p12

 

(主人公クーン)私には人間の生活というものは深い悲しい夜のように思われる。それは、ときおりいなびかりでもきらめくのでなかったら、耐えられないものであろう。p151

 

(ムオト)そりゃ慰めるか麻酔さすものがあったらから、やってこられたんだ。それはあるときは女であり、あるときは親しい友だちだった。ーーそうだ、きみもその働きをしてくれたんだーーあるときは音楽、あるときは劇場の拍手だった。ところがいまはもうそういうものはぼくを喜ばさないんだ。p223

 

(ムオト)ぼくは仏陀と同様、人生は空だと信じている。しかしぼくは感覚に快いように、感覚が主要事であるかのように暮らしている。それでもっと楽しくいけばいいんだが。p228

 

    主人公クーンとムオトは原因も時も違えど困難に行き当たっていたことがわかる。そう、誰でも抱えることがあるような……。しかし結果は大きく違ってしまいました。

    理由はなぜでしょう?それは答えられません。なぜなら主人公クーンが本書で言うように、

人間はなにものであって、なにを体験するか、また人間はいかにして生長し、病み、死ぬかということは、物語りえないことである。

 

    読後は自省せずにはいられません。

あのときは楽しかった。あれは可笑しかった。あの子は可愛かった。アイツはカッコよかった。

あのときは失敗だった。何故あのときあんなことをしたのだろう?

    そして、これからどうしよう……。

    私は実存主義者の名言に心惹かれるものがあります。例えばニーチェの「危険に生きよ」であったり、ハイデガーの「死を想え」などです。私の幸福の必要条件に「物質的充足」はないのでしょう。

さて、どうしよう。青春は過ぎ去ってしまいました。

 

onbullshit.hatenablog.com

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個人的に精神が異常なときの症状

みんなは精神がおかしくなっちゃったときに感じることはなんですか?

私の場合を箇条書きにしてみますね。

 

 

勝手に涙が出てくる

  • 仕事休憩中のご飯のとき
  • 勤務が終了して仕事場から離れてしばらく経ったとき
  • 仕事から帰宅したとき
  • 仕事から帰宅後のご飯のとき

    これらのときに涙が出てきます。仕事のときしかこの症状は出ません。

 

 

幻聴

  • 職場の人の声「〇〇君!」
  • 知らないおっさん「おい」
  • 自分の声「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね(以下略)」
  • 親の声「〇〇ー!〇〇ー!」
  • 職場の人の声「汁!」←入れろということ
  • 鳥の鳴き声が、ラジオから漏れるようなおじさんDJに聞こえる

    以上のような幻聴を経験しました。初めは幻聴かどうかもわからず、家に職場の人が来たと思って家の周囲を探したりしてました(笑)

誰かに確認してからでないと現実の相手が言ったかどうかわからないです。

 

 

吐き気

  • トラウマになった対象を見たとき(私の場合は仕事で使っていた車)
  • 仕事に行く前の洗面所

    以上のときに吐き気がありました。朝やることはまず会社の制服に着替えたあと、洗面所の前で土下座スタイルで激しい吐き気を押さえることですね。家を出ると治まるので不思議でした。

 

 

ボーッとする

    前頭葉が機能していない感じが強いです。なにかを読んだり、計算したりが上手くできません。短期記憶も弱くなりました。どんなに小さいことでもメモが必須です。

    眠たいです。一日にできる行動がよくて2アクションです。

 

 

(人生が)いつ終わるかな?とか考えてしまう

    孤独な人の寿命は短いと言いますし、いつ終わるだろうか?ということを考えることがあります。でも自殺はしたくない。「あの山登りたいな」とか「あの魚育てたいな」とか、やりたいことがあるからです。

    そこで都合?の良い希死念慮に行き着くわけです。不謹慎だし、当事者や関係者の方には大変申し訳ありませんが、事故や病気なら真っ当な死因だと思ってしまうのです。私の家系は一方は癌、もう一方は喘息と糖尿病ですからあるいは……と。

 

 

気を付けたいこと

・日を跨ぐ前に寝る

    不眠は一度夜更かしすると長引いて、アトピーも急激に悪化します。なるべく0時には寝るようにしています。

・体を動かす。日を浴びる

    健全なる精神は健全なる肉体に宿る、というのは逆転させても成り立つと思います。家庭菜園や生物観察、登山、ジョギングなどで体を動かしています。

    特に登山は自分の人生に大きく寄与しています。一人になれるし、景色はいいし、動植物を観察できるし、とにかく足を動かすのが正解でなにも難しくないですし。

 

まぁ、とりあえず、仕方なく、やっていきましょう。