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本、読み終えた。シーナ・アイエンガー『選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義』

 

選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫)

選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫)

 
選択の科学

選択の科学

 

 

 
本書目次
オリエンテーション 私が「選択」を研究テーマにした理由
第1講 選択は本能である
第2講 集団のためか、個人のためか
第3講 「強制」された選択
第4講 選択を左右するもの
第5講 選択は創られる
第6講 豊富な選択肢は必ずしも利益にならない
第7講 選択の代償
最終講 選択と偶然と運命の三元連立方程式
 
本記事目次
選択の不思議
でも選択はしなければならない
第三講は個人的につらい。
 
 
 医者にこう告げられたとしよう。
「このままだとあなたの半年以内の死亡確率は50%です。手術はできますが、成功確率は30%です」
バカな!そんなはずはない!あなたは違う病院に行ってみた。そこでは
「このままだとあなたの半年以内の生存確率は50%です。手術はできますが、およそ10人のうち7人が命を落としています」と言われた。
あなたは手術を受けるだろうか?それとも受けないだろうか?
 数字が大事、なのは確かです。しかしその示し方次第で誤った認識、選択を行ってしまうことがあるようです。
 選択についての研究は他分野で行われています。脳科学、心理学、経済学、文化学、社会学、犯罪学……。いやすべての学問で取り扱われているといっていいのではないでしょうか。本書では(数字だけではない)選択に関しての出来事と実験を引用して、人間はどのように選択をするのか?選択に必要な素材は何か?といったことを説明していきます。講義録をまとめたものなので言葉は平易。簡単に読み進められます。
 
 

選択の不思議

 とある国ではお見合い結婚が盛んで、またある国では恋愛結婚が多数という実情があります。私はお見合い結婚に抵抗があります。お互いをよく知ってからのほうがいい。
 しかしどうでしょう。筆者が実験した結果は意外なものでした。お見合い結婚では最初こそ幸福度が低いものの、年月が流れるにつれて上昇していく傾向になりました。一方恋愛結婚では幸福度は結婚時をピークに下がっていく傾向を認めたのです。
 お見合いは選択でしょうか?相手を変えることはできるのでしょうが、くじ引きのような感覚でもあります。強制的なものもあるでしょう。
 人は選択権を奪われるのは不安を覚えるのに、最初から選択権が存在しないという状況だとまた感情が変わってきます。
 
 本書にあった例をみてみましょう。(実際にお子さんをお持ちの方にはすみませんが)我が子が生まれようとしています。しかし生まれても生存確率が極端に低いと医者に告げられます。仮に生きたとしても重い障害を持ち、普通の生活はできない。もしかしたら植物状態かもしれない。
「産みますか?堕胎しますか?」
 この選択権はとても重いものだと思います。長い間苦悩するし、どちらを選択しても必ず後悔の念が残ると思います。
 そんなとき、筆者は一つ話をします。国によっては医者が選択権を行使することもあるのだとか。つまり医者が他人の子を産むかどうか決めて実行するのです。あなたなら怒りますか?
 他人の目からすれば生んだほうがいいという選択が多いかもしれません。そして堕胎を選択して非難を浴びるかもしれません。それを医者が担ってくれるのです。このとき「仕方なかった」や「責任を持つ」という宿命的な選択にシフトするというのです。選択権がないからこそ安心できる。そんなこともある。
 最初の質問を思い出してください。死亡する確率50%より、生存する確率50%と言われたほうが希望が多いと感じませんか?選択権を持つのが怖いのは、このような言葉によって間違ったことをしないだろうか。専門家と違う見解になりはしないだろうかという不安感がもとなのです。
 
 

でも選択はしなければならない

 自分の生活全てが選択です。朝起きるかどうか、歯を磨くかどうか、何を食べるか、決めることができます。その原因は生理的なものか、人間関係か、金銭的か、健康状態か。様々ですが選択は待ってくれません。
 私たちは選択を恐れないようにしなければなりません。選択すると何かを得て、何かを失うのはよく聞くことです。だから私たちは選択についてあらゆる思考をしなければなりません。知識や方法論、それらを知っておくことは決して完璧な選択を保証してくれるわけではない。むしろ選択が無限大の可能性を秘めている事実を強く認識するだけ。だからこそ筆者は選択には神秘的な美しさがあるのだと締めくくっています。
 
 

第三講は個人的につらい。

 というのも第三講は人間の身勝手さを示すものだからです。それもみんな「自分は特別だ、他の人とは違う」という思い込みを暴露する話だらけなのです。
 たとえばAとBというマニキュアがあります。もう一方にはエメラルドとグリーンというマニキュアのラベルが貼られています。女性をグループ分けしてそれぞれ感想を聞いたのです。みんな思い思いの意見を言います。実は上記の4種類のマニキュア、全部同じ色なのです。でも「私はこっちのほうがキラキラしてる」と言ってしまうのです。一種のラベリング効果ですが、これも人間が自分の能力を信じている(過信?)からなのです。
 もちろん特別な人はいます。人よりも多くの色を識別できる人や共感覚、飛びぬけた記憶能力など……。なぜ特別と呼ばれるのか。それは単純なこと、明らかに違うからです。世の中のシステムや社会制度を吹き飛ばす力だとわかるからです。そして私を含めて多くの人は明らかに違うところはない。
 いやそんなはずはない。他の人は仕事をしっかりやれてる。ちょっと状況が違うとすぐできなくなってしまうような私とは違うじゃないか。私とあの人が同じだって?
第三講は最初は反発するものの、それから鬱屈としてしまいました。
 
ここで大事なのは、私にはまだ「特別になろうとする気力がある」かどうかを確認できることなのです。すなわち
To be or not to be, that is the question.
なのです。
Be! Be! Be!