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本、読み終えた。池上俊一『遊びの中世史』

 

遊びの中世史 (ちくま学芸文庫)

遊びの中世史 (ちくま学芸文庫)

 

 

本書目次
第一部    遊びの宇宙
    第一章    子供の遊び
    第二章    大人の遊び
    第三章    遊びのプロフェッショナル
    第四章    動物遊び
第二部    遊びと社会
    第五章    習俗の中の遊び
    第六章    労働と余暇
    第七章    遊びと社会関係
    第八章    横溢する遊びの精神
 
記事目次
遊ばなかった人はいない
汚い子ども、憧れる子ども
大人のかけひき
日本の遊びは少なくとも独特ではない
筆者が考える「遊びとは」
 
 
 

遊ばなかった人はいない

 私は遊んでばかりですが、遊ばなかった人は地球上に一人もいないと断言できます。小林照幸の『朱鷺の遺言』ではまだ純国産の朱鷺の子どもが、落ちている枝をくわえて引っ張り合う描写があります。このような、明らかに遊びと見て取れる遊びは鳥類に多いようです。シャチ等も狩り目的ではないのに他の動物で遊んでいることがあるそうです。
 これらのことから、一定以上の知性を持っているとされる動物は必ず遊んでいるという思いがあります。そこまで考えると遊びとは?という質問に答えるのは難しいと思います。
 本書ではそれが人間に絞られ、どういう遊びをしていたかを知ることができます。なお中世史ということでヨーロッパの話です。
 
 

汚い子ども、憧れる子ども

 はじめにある子どもの遊びが一番ぶっ飛んでいます。うんこ塗りたくる遊びってどういうことなの……。自然のすべてを遊びつくすという点では正しいのでしょうか?
 もちろんそれだけではなく、弾む・回転する・リズムをとるといった遊び、骨を使った遊び、大人を真似た遊びなどが紹介されます。これらの遊びには階級差別があまりなく、遊びと現実は行き交うことを許しません。遊びの中では貧しい者も王になれます。
 
 現在はどうでしょうか。最低でもゲーム機がないとその輪に入れない気がします。私もゲームボーイアドバンスを持っていなかった時期がありますから、気持ちはわかります。
 バッタやザリガニを捕って喜び合える日々というのは長いようで短い。小学校高学年にもなるとみんなはゲームに夢中になってしまいました。カミキリムシが人気者なのはあっという間なのです。
 友達が友達でなくなるような……。寂しいあの気持ち。道端に落ちている犬の糞を木の枝に刺して笑っていたあの友達はどこへいったのか。
 
 

遊びはステータスの大人

 遊びはあまりにも人を熱中させます。中世では土地や邸まで売って身を亡ぼす貴族もいたとか。それどころか自分の命までかけることもままあったそうです。
 そんなものだから政治サイド、宗教サイドは特定の遊びを禁じます。しかし禁じているサイドも遊びの魅力に捕まり、夜な夜な楽しんでいたというのです。その理由は単純明快、暇だったから。
 貴族は渡り歩いてきた商人や楽団などを招いては楽しんでいましたが、それさえなかったら庭園を散歩するか、人の家に遊びに行くくらいしかなかったのです(人の家に行っても同じく暇をしている貴族がいるだけなのであまり変わらなかった)
 そのうち禁じられた遊びが力を持って表舞台に条件付きで出てくることになります。それが階級によって、できる遊びを決めることでした。その遊びを公然と言えるということは、貴族などの高い階級か、そういう付き合いがあるということを誇示できました。
 
 遊ぶすなわちステータス。現在でいうゴルフやビリヤードみたいなものでしょうか。お世話になった柔道の先生の家には雀卓があったなぁ(麻雀わかんないけど)
 
 

大人のかけひき

 遊びはお偉い方の御屋敷だけで行われるわけではありませんでした。むしろ多くの人が遊びの場所に指定していた場所は居酒屋だったそうな。そこでは流れ者、貧民、貴族、農民、売春婦、神父といった呼び名は全く意味がなくなりました。売春婦が神父とダンスしても気にも留めない。
 ですが遊びになればなんでも許されるわけではないというのが世の常なわけで。禁じられた遊びがなし崩しに黙認されていた代わりに、イカサマは法律でより厳格に禁じられていました。遊びはサイコロのようにどうなるかわからない。それがイカサマによって人間の手のひらの上になるのは遊びの神聖性を破壊することになるからです。
 
 そのような暗黙の了解で行われる中に、大人は大人の事情を滑り込ませていきます。恋がその一つ。
 日本でも外国でも、かつては公共の場で男女が積極的に接してはいけない決まりがありました。日本ではこんな話があります。気になる男が通るところにあらかじめ赤子を抱く女が立っている。男は「かわいい子だね」と話しかける。
女はこう思った。「計 画 通 り!!」だと。
男から話しかけるのはよしとされていたからこその計画だったわけです(確か江戸時代の話だったはず。間違ってたらごめんなさい)
 似たような感じで、遊びをするというのは公共の場で異性と堂々と話をする口実だったのです。女でゲームに強い者はその時だけは男を掌で転がすことができました。
 
 

日本の遊びは少なくとも独特じゃない

 この本には多くの遊びが詳しく述べられるのですが、それらを振り返ると「別に日本は他と変わりない」です。
 独楽(コマ)やハンカチ落とし、○×ゲーム、騎馬戦など、中世の頃からヨーロッパで存在しているようです。現代の外国人が日本の運動会とかを「楽しそう!」とか、「こんな風に過ごしたかった!」と絶賛してくれるので勘違いしますが、日本がオリジナルの遊びは少ないのではないか。あるいは遊びの領域である以上はどこでも似通ったものになるのではないか。こう思うわけです。
 
 

筆者が考える「遊びとは」

 ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』では真面目に対立するものであり、あらゆる文化(言語、法律、制度、儀礼、芸術)の起源だと説きました(p230)
確かに『ホモ・ルーデンス』では何度かそう書いてあります。

 

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

ホモ・ルーデンス (中公文庫)

 

 

 で、筆者はそこまで広範囲だと身もフタもないとして掲示するのは、「遊ぶ共同体が遊んでいると合意しているとき遊びとみなす」としています。しかしただの「設定」に止めるとしています(p231)
 
 ではカイジのように命のかかった大金は遊びではなくなります。原作でも勝負とか言ってますからね。ということは制作にかかわった人も遊びとは感じていない。私たちは遊びで耳の鼓膜をぶち破ったり、指を切ったりすることもありません。
 
 遊びのつもりだったと供述して同級生を死なせてしまうイジメや致死事件はどうでしょう。被害者は遊びとは思っていなかったはずです。遊びと呼ぶには条件があると思います。それは上記に書いたような階級、身分といった現実をなくすことです。現実の関係があったままでは遊びにはなりにくい。
 
 筆者は、遊びは決して社会秩序を転覆させるものではなく、むしろ保存するのに役立つと書いています(p233)
私たちの根は真面目でしょうか。はいと即答する人はなんだか信用なりません。誤解も仕方ありませんが、人間は遊んでこそではないでしょうか。
 

本書ではこちらについても少し言及があります。ホイジンガとは逆に、カイヨワは遊びは文化の産物であるとしています。遊びのタイプを4つ(運・競争・模擬・目眩)に分類しました。 

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)