On bullshit

読書感想文、社会評論、その他を自分勝手に。

思ったこと 感じたことを そのままに

悪文や難解な本も読むべき、ということに関して

 「初めに結論」や必要に応じて「箇条書き」といった文章構成のテクニックによって、わかりやすい文章が多くなりました。

 

しかしそれは本やビジネス上での文章であり、私的な状況にまでそれを持ち込むと、ぎこちなくなってしまいます。
 つまり試行錯誤されて考えられた、わかりやすい文章ばかりが世の中に蔓延することはないということ。
そしてそれとは逆のわかりやすくない文章を読むのも時には必要ということを示したいと思います。
 
結局この記事で言いたいことを初めに書いておきます。
文章を理解するのが目的なのですから、わかりやすい文章のほうが優先されるべきです。
それでも時には、そのような助けに頼らず、解説本ではなく原書(日本語訳)にチャレンジするなどして、自分の読解力を磨くべきではないか?
あるいは「ばら・バラ・薔薇」、「さくら・サクラ・桜・櫻」などのように様々な表現に積極的に触れてみたほうがいい。
ということが言いたいのです。
 
 とはいえ、そんなこと思っているのは私だけかもしれないので、指摘も「かもしれない」にします。
 
最後まで書いたとき、
「結構バカげたこと書いてるな」
「投稿しないほうがいいかな」
と思いましたがアップしちゃいます。
On bullshit(うんこな議論)
ですし
 
 みんながどう思っているか知りたいです。
 
 
 
 
 
●学問的に高度な文章に
慣れないかもしれない
 たとえば言葉に自分なりの定義をつけて、持論を展開する学者もいらっしゃいます。
そのような場合、ビジネス上の文章作成技術では対応できないこともあり得ます。
 また高度なことを考えるには難解な本も読んで慣れ親しんでおくことが必要だと思います。
大学時代にフランスの政治を専門にしている方はある論文で、ボクシングを例にして語っていました。
コミカルな論文でしたが、それは稀有な例です。
 また法律学を学ぶ場合、昭和や大正時代の判例も学びます。
そのときどうしても悪文が出てきます。
説明されると「なんだそういうことか」という文章がたくさん出てきます。
そうしたものに対する耐性が弱くなるかもしれません。
自分でどういう意味かと考える力を奪いかねません。
わかったとき、人はようやく成長するのではないでしょうか。
 
 そして高度な文章というものの中には少し難しい言葉を使っている場合があります。
ランボーの『地獄の季節』あるいは多くの西洋文学で、「吝嗇」という言葉を見かけました。
これは「りんしょく」と言って「物惜しみすること」です。

 

 

地獄の季節 (岩波文庫)

地獄の季節 (岩波文庫)

 

  

ビジネスではそのようなものは排除します。

「やぶさか」と書いたとしても「吝か」と漢字にはしません。
 これは俺の知識に合わせろなんて主張ではありません。
難しい言葉や漢字を使えなんていう主張でもありません。
 
表現方法やその種類が減らないような努力がどこかで行われないと、何かマズイ気がします。
それは会話で使われるような言葉しか残らないのではないか、という漠然とした不安です。
 私たちは近代につくられた言葉でも古典化させようとしているのでしょうか?
その代わりに新しい言葉が生まれていますが、それは今のところムーブメントと大差ありませんし、商業チックに思います。
 
 
 
●長い文章の理解力が
落ちるかもしれない
 接続詞が無駄に長い文章を奨励するわけではありませんが、それでも一つや二つ接続詞があってもいいではないかと思います。
西洋文学で1ページまるごと一つの文だったということは多くあります。
またスタンダールの『赤と黒』のように、小説がおばあさんの語り口調から始まって、終わりまでそれが維持されているものもあります。

 

赤と黒〈上〉 (岩波文庫)

赤と黒〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 

赤と黒〈下〉 (岩波文庫 赤 526-4 9

赤と黒〈下〉 (岩波文庫 赤 526-4 9

 

 

つまり壮大な「」←なんです。

また文学では伝えるために形容詞を並べ立てたりすることがあります。
私が好きなヘルマン・ヘッセは度々それを行います。
 
 
並べられる表現を読むたびに、その状況や感情に色が付け加えられていくのが楽しいのです。
 わかりやすい文章ばかり追いかけることによって、そのような読解能力が減少すると思います。
五感で文章を楽しみたいのです。
わかりやすい文章にも限界があります。
少しでもわかりにくいと思ったらピクッと反応してしまう、過敏な状態になってしまうと思います。
すぐにダメだと思ってしまってはいけません。
 又吉直樹さんの『火花』が悪く批判されることと、それが純文学だったということは関連性があると思います。

 

火花

火花

 

 

つまりはパッと見ではわかりにくいので批判がしやすかった、ということです。

 
 
 
●語りえないものを語るときでも
文章を短くするかもしれない
 新しい哲学や思想、定義、概念といったものを考えるとき、既存の言葉で語りえないものが出てきます。
そのとき近い言葉を列挙したり、比喩や直喩といったレトリック(表現技法のこと)を用いることが、他人に理解してもらう近道になります。
しかしそのときでもビジネス面では短くする傾向があるように思います。
 他人の考えを短い言葉で一発に理解することは難しいです。
つまり既存のものから抜けにくい内容の文章に陥ると思います。
レトリックは重要です。
スピーチやプレゼンでレトリックを駆使しないものはありません。

佐藤信夫さんの『レトリック感覚』はその大切さを、多様な例を用いて教えてくれます。 

 

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

 

 

 
 
 
●しゃれた文章表現が
減るかもしれない
 遠回しな言葉をビジネスでは避けます。
ビジネスではもちろん大事ですが、それが巷にまで流れてしまうのは残念です。
しゃれた文章表現がまるで場違いかのような雰囲気があります。
しゃれた言葉を日本の会話でしようとすると必ず滑ります。
それは小学校から「~だと思います」や「~はダメだと思います」のような定型文を植え付けすぎるからだと思っています。
この記事でも「思います」を多用しています。
英語圏で「I think……」の多用がビジネスマンに嫌われるというのは有名です。
もっとさまざまな表現を認めるべきです。
 
 
 
●クセのある文章に対する忍耐力が
なくなるかもしれない。
 新潮文庫ヤスパース『哲学入門』の本文は、ほとんどが「~であります」という文末です。
*今はどうかわかりません。

 

哲学入門 (新潮文庫)

哲学入門 (新潮文庫)

 

 

ストレートに訳した結果だと思いますが、ときにはこのようなものにも触れる必要があると思います。

私は一つのものに固執することが嫌いです。
 元マイクロソフト社長の成毛眞さんは、「新刊本の洗練された文章のほうがいいに決まってる」という主張をされてますが、昔の文章を丸ごと否定するような主張には賛成しかねます。
私は古い表現も大好きです。

 

 

私は昔の表現、それを音にしたときの響きさえ、大事にしたいと思っています。

読書のすべてを情報収集のようにしたくはないのです。