On bullshit

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募金の個人的な見解

募金の行為について。

 

●募金の個人的な定義と

問題提起
 募金とは良心的行為を他人に委託することです。
個人の善は、必要性の発見、対策の想起、アクションというワンパックな機能のはず。
それを部分的に取り上げるのが募金です。
だから募金は個人の善を減少させる悪なシステムだと思っています。
 
  • 「最悪ではないだろう」
  • 「少なくとも役に立ってる」
 
そう思うかもしれません。
 本当にそうでしょうか?それは金を中心に考えた結果ではないでしょうか?
自分自身に与える影響は考えているのでしょうか?
 
場合を想定すると、個人の道徳心を減少させるシステムであることがわかります。
少なくとも、人間本来ではないことが。
 
 
 
 
 
●場合1
 コンビニで買い物をして、おつりが520円あったとします。
そして目の前には、誰(何)を助けられるかは読んでいないが、とにかく募金箱がある。
20円入れる人はいるでしょう。
しかし520円は?
そうそういない。
また20円を入れる選択は、募金ではなく単に小銭の処分という短絡思考である場合が多い。
 
 この場合、自分が持つ本来の道徳心が、箱に小銭を処分するべきかどうかという思考にすり替えられてしまう。
選択する時間を削るため、ゆったりした時間が確保できない場所、すなわちレジに置かれることが多い。
財布も開いているから、都合がいい。
 
・箱と時間
 選択する時間が多い場所に置いてある場所に設置されている募金箱は、透明だろうが色つきだろうが、悲惨な金額です。
誰も入れない。
そういう場合はイベントがセットになっている。
 
 小学校であったような、赤い羽根共同募金のような場合は半ば羽を売っている。
周囲の目があるからある意味、道徳心を試す踏絵だ。
さらに悪い。
 
 24時間TVの募金箱が色付きなのは、金額によって、良心の呵責がおきないようにするためだ。
募金しやすいように初めから小銭の層が入っている場合もある。
それで合計募金額を増やす。
代わりに心を減らす。
代わりにアイドルと握手する欲求が増えて小さくなった心を覆い隠す。
 
 募金箱がブラックボックスなのには理由がある。
 
 
 
 
 
●場合2
 場合1と同じ状況で、募金した人はフルネームで記名・公表されるというシステムがある場合はどうだろう。
立派な人だと評価されるか。
 
 ピーター・シンガーは『The Life You Can Save(あなたが救える命)』で、このように名前を表示することで募金額は上がると言う。

 

あなたが救える命: 世界の貧困を終わらせるために今すぐできること

あなたが救える命: 世界の貧困を終わらせるために今すぐできること

 

 

 これは善的観点からは否定せざるを得ないと思っています。
なぜなら、
「20円はケチ臭いと思われるかもしれない。そして500円も持っていかれるなら、一切払わず、名前が表示されないほうが、私の評価は変わらない」
と考えるからだ。
 
 仮に募金額が上がったしよう。
しかしそれは良心的行為の結果ではなく、募金額という売名競争の結果になるだけだ。
つまり富裕層表面的善で埋められることになるだろう。
 
 
 
 
 
●場合3
 震災後のメディアではタイガーマスクさん達を高く評価していました。
  • 「まだこんな人がいるんです」
  • 「世の中まだまだ捨てたもんじゃない」
と。
 私は今、これを思い返したときの感想は、
  • 「やるせない」
です。
 
 実名でランドセルや本などを寄付したとしましょう。
しばらくはヒーローでしょう。
しかしその後、継続的に寄付し続けなければならないような社会的な圧力を、心理的に感じるのではないだろうか?
あるいは厚かましいオバサンがコバンザメよろしく、こびり付いてくるのではないだろうか?
そう考えるとサンタさんのような、架空の存在で届けに行くのが安全だ。
サンタの正体が明らかになれば、状況が一変するのは誰もが通る道だろう。
 
 その点、無名はそのようなリスクはない。
藁人形の理屈と同じなのは奇妙だ。
行為を見られたら殺さねばならない。
そうでなければ自分が死ぬ。
 
 どうして道徳的行為をするのに、そんなことを考えなければならなくなったのでしょう。
 
 
 
 
 
●場合4
 アフリカで実際に起きたことは無償供給の欠点を示しています。
物資供給に甘んじて、仕事などせず、悠々と暮らし始めたのです。
結果、貧しい状態が続きました。
システム的な善が、怠惰を生んだのです。
能動的な善ならこのようなことは起こらなかったでしょう。
 
 ピーター・シンガーは、寄付は必要最低限度に抑えるべきだと語ります。
自浄作用がなくなるからです。
 
 
 
 
 
●世の中、金金金
 本来、道徳的行為はまさしく、物理的な行動から生まれていたはず。
それが現代的なシステムの中に募金という構造が組み込まれ、私たちは自分の道徳心について考えることをしないで済むようになりました。
 
 「募金がされて、実際にそのお金が運用されて、人・物が助かっているならいいではないか」
私はそのサイクルが続くなら、人間の社会的な、倫理的な脳が退化すると思います。
 
 人間の感情を支える脳の部分は4つ。
視床下部扁桃体前頭葉、そしてそれらをつなぐ神経です。
また脳は近くにある部位に影響されやすいのです。
数字に色などを感じる共感覚という脳の現象も、そうしたことが起因しているとわかっています。
 
 つまり、あなたの感情が荒み続ければ、脳に影響を与えるということです。
金のことばかり考えていたら、思考過程に金を挟まずにはいられない脳になるでしょう。
 
 ネアンデルタール人は足を負傷した仲間を養っていた形跡が確認されています。
生きることだけに執着していなかったからこそできたことです。
私たちは自然界の動物のように超合理的に生きてはいないんです。
 

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 税金によって、環境などの問題に盲目的になったということと似ている。
そうしなければ維持できない状況だからこそ、金を頂戴する側は事細かな説明責任があるはずだ。
 
 
 
 
 
●道徳を挟む余地
 家族、親戚、友達、恋人には大抵やさしくしますね。
でもそれが道徳的行為と呼ぶと、なんだか違う感じがします。
道徳は何もつながりがない他人に対して、無償でも構わないと思いながら行う行為のはず。
キリスト的には無償の愛です。
 
 私たちはこれをする時間がほとんどないタイムスケジュールで過ごしています。
長時間に及びそうな場合はほぼ確実にこれを避けます。
 
 だから道徳を行うことができるのは、限られた人にしかできないことだと考えます。
道徳を行う気構えをいつでも持てるのは、時間的な余裕を持っている人だ。
募金は大切なシステムであることがわかります。
問題はお互いの精神の持ちようです。
 
 
 
 
 
基金や協会、機構
 募金をするに際して、どうして信頼できるところとできないところがあるのだろうか?
槍玉に挙げられるのは日本ユニセフ協会とアグネスだ。2014年度では、協会から本部へは総額は169億3784万円のうち81.5%にあたる約138億円を拠出しました。
 

www.unicef.or.jp

 

日本ユニセフ協会 計算書類 | 日本ユニセフ協会

ここ↑からいろいろ参照することができる。

 

国際的な協会である以上、ネットのような過激な感想をそのまま頭に取り入れることは危険ではある。
しかしFIFAの汚職のようなものの可能性もある。
 
指摘するとすれば港区の1等地に自社ビルを持っている。
お金に対する思想が見え隠れしているように思えるが気のせいですか。
そんな豪華にしなくても?
いくらなんでも考えすぎですね。
 
 しかしアグネスがネットでボロクソに批判されるのも理由があるんです。
(そもそもどうして「日本」なのに大使が外国人……?)
画像検索すればすぐに出てくる、アグネスという人権活動家(?)の矛盾は、この世がで動いていることを教えてくれる。
 また日本ユニセフ協会大使がアグネスだけのように思われているが、もう一人いらっしゃる。
日野原重明氏、103歳。
代わりはいないのかと心配してしまう。 
 
 まだまだ胡散臭い団体は多い。
 
 簡単にできる現金回収システムはさまざまだが、必ず利用しようとする一部が出てくる。
 

sankei.jp.msn.com

 
 
 
 
 
●終わりに
 私たちは「いらない」と思った金を募金箱に捨てて、回収した一部の大元はそれを好き勝手に使っています。
(言い過ぎだと思いますが、そういう面がないとは言えない個所にしか、募金箱は常設されていない)
 
 24時間テレビで募金された合計金額は発表されますが、その後それが、どういうことに使われたかを示す内容はテレビには流れない、表示されない。
捨てた金だから誰も関心がない。
 
 どうですか?
  • 「じゃあお前がアフリカまで行けよ」
という感想もあるかもしれませんが、募金が存在してはならないほどにまで最悪とは思いません。
 
 世界がネットでつながっている以上、世界中から托鉢して回るのが一番回収金額が多いのは当然だから、やらない手はないわけです。
 
なんだかグダグダ言ってきましたが、
 私がこの記事で主張したいのは、募金のシステムを利用することによって、あなたの道徳心はどうなっていきますか?ということを問いたいんです。
 
  1. 募金者はしっかりと意識を持って募金する。募金したいものに募金する。
  2. 受け取り手はしっかりと最大限にそれを目的別に有効活用させてもらう。
  3. そして詳細な内訳を、数字だけでなく現実的な証拠とともに報告する。
 
このスリーステップが、募金が持つ意義を満たす最上のサイクルのはずです。
 
 それがなく募金をすることは、募金者側は「代わりに世のため人のために良いことをして、と頼むことになり、金を免罪符にして、善の面を捨てている」こととなります。
受け取り手は「新しいことを生み出す可能性がある資金を善の面で捨てている」ことになります。
金を物質的に処理してはなりません。
 
 私たちは自分が一度手放したものも、関係ないものとして扱うのではなく、社会にとって必要なものかどうか考えてみるのも、おもしろいですよ。
ときどきこんなん買う人いるの?というキッチングッズとかありますからね。