『2015年5月3日 読売新聞 地球を読む 「人文社会科学 軽視を憂う」』を読んで
●内容
文系と理系の重要度の偏りについての批判だった。
文科省はロボットなどの科学技術を重視し、人文社会科学に属する学問を軽視している。
猪木氏の主張は人文科学と科学技術のバランスが大事なことは歴史が示していると結論した。
●コメント
私もバランスが大事だと思う。
そもそも技術が進歩しても何も普及せず進展しないのは、人間が技術の限界を知ることができないからだ。
だから既存のものとミックスさせる。
たとえば人間と将棋を指すプログラムを組んだり、AIの実験としてクイズ番組に出演させたりすることがそれである。これは科学技術はそれ単体では進展しないことを示している。
人間と科学技術がどちらも必要とされ、投入されて飽和状態になることが重要なのではないか。
文科省は科学技術の限界を知ることができないのを理由にして、無闇に科学技術偏重の姿勢を取ったのだろう。理解に苦しむ。
社会が進化するにはその社会を表す新しいキーワードや概念が必要となる。哲学や社会学、社会心理学といったことはその根底をなす。科学ではない。もし文系を一掃することになれば日本社会は停滞し、沈むことしかできなくなるだろう。文系を捨てるということは言葉を捨てるのと同じことだ。
国はイコール政治であるはずなのに、文科省が文系を捨てようとするとは失望の極まりであり、もう駄目だなと達観してしまう。
日本が科学技術、ロボット技術に特化したいという世界の流れに沿った願望を抱くことは十分に理解できるし、またそうするべきだと思う。しかしたとえばロボット産業が目覚ましく進化すれば、かならず倫理的な問題に遭遇することは必然である。それなのにそういったことを考える文系を排除しようとするのは間違いだ。今の文系のあり方が問題なのであって、文系それ自体が役立たずというわけではない。役立たず呼ばわりしているのは政府だ。従って今の政府こそ役立たずだ。
●文系理系の枠を撤廃する
私はある私大の法学部を卒業したが、法医学を学ぶとか、そういった他学部とのつながりは全くなかった。
どうしてだろうか。理系文系という変な分け方のせいだと考えている。日本の企業が学部を卒業した学生を馬鹿みたいに採用したいのなら、より突っ込んだ学生のほうがアピールしやすいだろうに。そういう受講プログラムのほうが学生もより社会にある問題を考えやすくなる。学問の基礎を教えて、社会の問題を概括的に語れるようにするのは難しいからだ。深くしれば他がわかる。学問はそういうものだと思っている。
海外だと学部を卒業した程度の知識はあまり評価されず、院まで卒業してようやく学識として見られるらしい。
日本はせっかく一応勉強して卒業した学生の知識をあまりにも頼りにしなさすぎだ。ビジネス書が売れるくせに、その流れに触れている学生を役立たせることができていない。結局学生をはじめから信頼していないのは企業だ。学生はそこをまず裏切られた気持ちを感じて、就活していく。就活で自殺する人は純粋な人だったに違いない。
やはり文理のあり方を考え直すことが必要だ。
考え方は2つある。まず文理という体制は残すが、学び方を変える。上でも書いたように法学部なら法医学なども学べるように整える。
あるいは文理を撤廃する。何を受講するのも自由だ。ただし国際競争力のために国際的な教養を教える科目は全学生に受けてもらう。交流型の講義にする。ついでに言えばスポーツをやっている学生にお情けの単位授与はなしにするとか、日本の教育機関全般に言いたいことはたくさんあるがそれは置いておくとして。
結局はバランスだ。
ただ障害となる「文系理系」という勘違いの元になる言葉をしっかりと考える必要があることは確かだ。