本、読み終えた。Shel Silverstein『THE MISSING PIECE』
- 作者: Shel Silverstein
- 出版社/メーカー: HarperCollins
- 発売日: 2006/01/24
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The Missing Piece Meets the Big O
- 作者: Shel Silverstein
- 出版社/メーカー: HarperCollins
- 発売日: 2006/01/24
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ひさびさに泣いた気がする。原著で読んだ感想。
記事目次
あらすじ
何が欠けているのか
かけらを置いた「ぼく」
急くな?
日本語訳の訳者あとがきについて
あらすじ
「ぼくは欠けている。だから幸せじゃない」
そう思って自分のかけらを探す旅に出る。
ときに太陽に焼かれ、雨に降られ、雪に埋もれる。wormと話したり、花を嗅いだり、カブトムシを追い抜いたり、また抜かれたりした。
最後にやっと自分にぴったりのかけらを見つけてはめ込む。でも以前とは違って速い速い。wormと話すことや、花を嗅いだりできなくなった。歌も歌えない。というお話。
何が欠けているのか
私はあんまり嫌なことには頑張れません。
なんだか頭がぼーっとする。あたまが晴れ晴れしたことはほとんどありません。だから頑張れるキッカケが興味、ぐらいしか残りません。
興味を持ったことは何時間でもできます。ぼーっとしてるから。でもそんなことは毎日はできません。真面目にならないといけないときが来ます。
私にとって「真面目とは嫌だと思うことをやる」ということと似ている、と受け取っています。そして真面目になかなかなれない。
だから仕事はかならず評価が落ちる一方で上がることはないです。こんなこと言うとただの最低な奴なんですけどね。
でも興味がある、楽しい!と思えることは率先して行います。昆虫食?どんとこいです。動植物の同定?頑張ります!
興味があることでは頼りにされてる?かもしれない。
じゃぁ、私にとってのかけらは真面目に頑張ること?でもみんなやることはやって、やってないことはやってない。自分が嫌だと思っていることを楽しくやっている人もいる(接客とか、対人接触とか)
では私のかけらとは?
かけらを置いた「ぼく」
ストーリーの途中で「ぼく」はいろいろなかけらを見つけて自分の型にあてはめていくのですが、大きすぎたり小さすぎたりして合いません。そして自分にぴったりなものを見つけてはめるのですが、できないことが次々と明らかになって、かけらを置いていきます。
そうしたら転がるスピードはいつもの通り遅くなりました。そしたらちょうちょが頭に止まる。このシーンで泣いた。
急くな?
上述した私は改善されなければならないことでしょう。自分なりにいろいろやってきましたが、今のところ上手くはいってません。丁度いいかけらではなかったのかもしれません。
落ち込んでいるときは動植物と触れ合います。まるで本書のラストシーンのように。
「かけたままやろう」
という言葉が浮かんできました。自分に合うやり方でないと上手くはいかない。それがwormとお話したり、花を嗅いだりすることなら、いいなぁ。
自分に合うやり方?最近読んだような……
↓
日本語訳の訳者あとがきについて
訳者あとがきで訳者は自分の足りない何かを探す、という時期を卒業して大人になるのだ、ということを書いているらしいです。で訳者はそのかけらを死だとしている(日本語訳は読んでないです)
確かに生と死が合わさって人生になる。でも今回のテーマは自分に足りないものを探すとはどういうことか?というものです。
私たちは普段、自分の死について考えていますか?はい、と言うなら心配です。それは学者の研究テーマか精神病をかかえていないとできないことですよ。
つまり子どもだろうが大人だろうが死というかけらを探して生きているわけではない。そんなかけらを見つけてしまったらみんな死んでしまうのでは?そうでないと自分が完璧にならないなら生を選び続けている現代人の意義はどうなってしまう?私は訳者の意見には反対です。訳者の意見は宗教的宇宙観のようなスケールが大きい話でしか生きてこないものだと思います。
本書の話はそんなものじゃない。wormとお話したり、花を嗅いだりするのに死は必要ないのです。