On bullshit

読書感想文、社会評論、その他を自分勝手に。

思ったこと 感じたことを そのままに

ブラック部活が生まれる要因の一つに「感動」がある。

 
 柔道は楽しい。「柔よく剛を制す」もある程度は可能で、自分より大きい相手を投げ飛ばしたときの爽快感は格別です。誰もが強くなりたいと思っている。そのほうが楽しいから。仮に強くなれなくても楽しみたいと思っている。でも楽しめない環境になっていく時期がある。真剣になる時期がある。
 一つは試合前。県大会とかの全国への切符が間近のときはみんなピリピリする。練習がなかなかケンカ腰になる。そしてもう一つが今回のメイン。「感動」を目にしたとき、だ。
 
 かつて、県大会でこんな一幕があった。とある選手が片足の膝のじん帯を試合中に痛めてしまった。うめき声をあげる選手。おそらく断裂した。先生方が「もうダメだ。棄権するしかない」と選手のそばで言った。選手は「絶対にイヤです!」と猛抗議した。しばらく先生と選手で押し問答があった後、試合は再開された。立っているのがやっとで、片足を引きずりながら迫る選手に、相手は戸惑っていた。
 相手は遠慮しがちに足をかけた。じん帯断裂が起こっているであろう足に小内刈りをしかけたのだ。もう一方の足は相手の全体重が乗っているから、仕方のないことだった。
 軽く仕掛ける。それでも簡単に畳に沈んでいった。抑え込みが始まる。静かだった。力を感じない、優しい抑え込みに見えた。
 ブザーが鳴った。試合終了だ。場内は拍手が沸いた。膝を痛めた選手は言った。
「ケガには負けてない。試合に負けたんや」
 
 ここまでは「感動」である。それは選手の意地と、それを受け入れた相手選手の心意気だった。私は泣いたし、多くの人が泣いていた。
 ではその後どうなるか。言わずもがな「多少のケガで弱音を吐くことが許されなくなる」
そして「あの感動をもう一度味わいたい」と思うし、それを「他の人にも託すようになる」
 
 かつてワタミの元社長が「感動を食べれば生きていけるんです」とか言っていたが、私は7割反対だった。3割は同意だった。
 感動がなかったら人は生きていけないと思う。私はコケ植物やその他の動植物を観察するのが好きだ。小さな中に精密な機構があることに感動する。あるいは『ゴリオ爺さん』を読んで涙する。そういう経験がない人を見たことがない。動物関連でお涙頂戴番組があるのはそのためだ。

 

ゴリオ爺さん (新潮文庫)

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 感動というのはなかなかない。だからいつの間にか、なりふり構わず手段を尽くすようになる。ケガならまだいい。死者が出たときでも、それが「感動」に変わってしまったら末期だ。
 特別な世界と日常の境が曖昧になり、特別な世界を日常だと錯覚したときブラック部活・ブラック企業が起こり得るのではないだろうか。その出発点の一つに、人間の純粋な心の機能である「感動」が数えられることを示しておきたかった。
 
 これから夏だ。熱中症になるには十分な気温になっている。野外スポーツは直射日光が、柔道などの屋内スポーツは熱気がこもる。汗で畳に水たまりができるほどだ。なんのために自分はスポーツをしているのか?それを問い続ければ、悲しい出来事にはならないはずだ。

 

ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う

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