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On bullshit

読書感想文、社会評論、その他を自分勝手に。

思ったこと 感じたことを そのままに

本、読み終えた。ハリー・G・フランクファート『ウンコな議論』

読書 哲学

 

ウンコな議論 (ちくま学芸文庫)

ウンコな議論 (ちくま学芸文庫)

 

*ウンコの話ではありません!大事な話です!

 

 

本書目次
ウンコな議論
訳者解説    山形浩生
文庫版へのあとがき
 
本記事目次
世の中ウンコまみれ
真実を語ろうとする努力
やむを得ない適応行動
ウンコな議論は今に始まったことではない
 
 

世の中ウンコまみれ

    知らないことに対して何か意見を言うという状況は多くあります。朝のニュース番組に芸能人が出演して社会問題に対して一般的見解しか言わなかったり、面接で付け焼き刃な御社の情報や業界知識を披露したり。一応知った・勉強したのだから大きく外れることはない。だから嘘とも言えない。この曖昧さをウンコな議論と呼ぶ。
    実は当ブログのOn Bullshitというのはこの本から来ています。「でたらめに」という意味です。しかしBullshitをもっと調べると「雄牛の固形排泄物」という意味なんです(これは本書の訳者解説でも書かれていることです)
私は専門家ではありませんから、専門書を読んで読書感想を書くことによって勘違いさせることはあると思います。しかし専門書で読んだことを元にして書くのですから決して間違ってはいないし、ワザとではないので嘘を書いているわけでもないということになります。自分のブログはそういう厄介なことになるだろうと予想してOn Bullshitと名付けたのです。そう考えると大半のブログはウンコな議論になってしまうかのように受け取られてしまい、「お前だけがウンコだよ」なんて言われる危険がありますが、ハリーからすればそれは少し違うようです。
 
 

真実を語ろうとする努力

    『ウンコな議論』本文でこんな話が引用されています。
 
これは1930年代にかれ(哲学者ウィトゲンシュタイン)とケンブリッジで知り合ったファニア・パスカルの語る逸話に表れている。
   扁桃腺を摘出して、きわめて惨めな気分でイブリン療養所に入院しておりました。ウィトゲンシュタインが訪ねてまいりましたので、わたしはこううめきました。「まるで車にひかれた犬みたいな気分だわ」。するとかれは露骨にいやな顔をしました。「君は車にひかれた犬の気分なんか知らないだろう」 (28ページ)
 
ハリーはこれを真実への配慮を欠いていたからこそウィトゲンシュタインはこう言ったと結論しました。これはどういうことなのでしょうか。私が車にひかれた犬の気分を真実に配慮した形で文章を作り直してみます。
 
扁桃腺はノドの近くにある器官だから、それを取るということは当然ノドに違和感を感じることになる。その違和感と薬の影響でノドが非常に狭く感じて息が苦しい。だからといって風邪のような苦しさじゃない。そういえば家の近所でひかれて間もない犬を見たことがあった。ぜー、ぜー、といっているわけではなかったが、ストローを通して呼吸しているような音がしていた。あのときの犬みたいな感じ」
 
人間と犬とでは造りが違うのですから、真実ではないでしょう。しかし人は人に自分にしかわからないことを伝えなければなりません。それは真実に近ければ近いほどよいわけです。しかし上記の彼女はそうでないことを気にもとめていない。それが核心だったわけです。
    真実なんてわかるわけがない、真実とは観察者によって変わるものだ、あるいは「真実というものは存在しない。存在するのは解釈のみである」という人もいます(ニーチェ
しかしだからといって真実らしきものばかりで埋め尽くされるのは問題です。ハリーはこの問題がどうして発生するか仮説を立てています。
 
 

やむを得ない適応行動

    訳者解説で書かれていることを引用します。
 
「知らないことについて意見を求められる状況が増え、さらに市民意識の歪んだ浸透のせいで、そうした意見を求められた際にあっさり「知らない」「意見はない」と言うことが恥ずべき事とされるような暗黙の風潮が広がっているために、人々はやむを得ずその場しのぎでウンコ議論や屁理屈を大量にばらまくようになったというのである」(112〜113ページ)
 
これならようやく、ウンコな議論とはどういうものかを把握できるのではないでしょうか。そして訳者はこれを民主主義を発展させる効用があるのではないかと投げかけている。そう思うと当のウンコは途端に希望が詰まったウンコに思えてくる。また哲学的基礎研究(真実とは何かなど)にもスポットが当たる可能性を示したということも書いています。
    プラトンは「賢者は語るべきことがあるから口を開く。愚者は語らずにはいられないから口を開く」と言ったらしいです。現在、民主主義では投票することによって意見を表明することになると思いますが、その対極として口を開かずにはいられない状況があるのだとしたら、意見は常にミキサーでグチャグチャにかき混ぜられているのが平常なのでしょう。これを書いている時に起こった事件であるキュレーションサイトのパクリ疑惑と一斉閉鎖、パクリブログなどなどはミキサー中のダマのようなものなのかもしれません。
 
 

ウンコな議論は今に始まったことではない

    ハリーはこの元となる文章を1970年代に書いたらしいのです。そして一向にこのウンコな議論が進展しないので、実名で出版することにしたそうです。なのでウンコな議論に関する研究はこれからになります。心理学や言語学民族学、文化学などに結びつきそうで興味深いです。
 他方、訳者は有名な本、『クルーグマン教授の経済入門』(ちくま学芸文庫)や『21世紀の資本』(みすず書房)などを翻訳しておられるようですが、本書が日本ではスルーされたようで。タイトルもそうですが、本書で使われるウンコがどういうウンコか容易には理解できない原文だったと言えると思います。きっちりとした体系的な構成にもなっていないと感じました。今後はウンコの類型論が語られることを期待します。
    個人的にはウンコな議論と言われていることには肯定的です。そうでなければここまで言語は表現豊かにはならなかったでしょうし、もし真実だけを語るだけの言語があったら、かなり語彙が少ないと予想します。また真実だけしか語れないのならば、私たちはどうやって昔のことを伝えればよいのでしょうか。どうやって見たことがない病気や暴力に備えればよいのでしょうか。真実に近い表現から離れ、レトリックを駆使した表現ならいつでも共通のコミュニケーションが可能になるはずです。おそらくウンコな議論は遠い昔から続いてきたし、これからもなくなることはないでしょう。だからといって真実<ウンコの状態は見過ごせません。これに気づいた現代は研究対象に加えることを望みます。何故なら私は口下手だからです。言いたいときに言いたいし、言いたくないときは言いたくないからです。ウンコな議論を生産するかどうかにも自由がほしいものです。
 
最近こういう指摘がありました。

予想するに本記事の「ハリーはこれを真実への配慮を欠いていたからこそウィトゲンシュタインはこう言ったと結論しました。」という部分のことを指摘しているのだと思います。
しかしこれはちくま学芸文庫から出ている本書の33ページに載っていることです。
33ページの問題と予想される箇所の文中を抜き出すと、
 
さて、ウィトゲンシュタインパスカルの気分表現を本当にウンコ議論の見本だと思っていたのなら、それはなぜか?吾輩が思うに、それはかれがパスカルの言うことをーー雑駁に言わせてもらえばーー真実への配慮を欠いたものだと受け取ったからである。(33ページ)
 
となっています。ツイートされたものには原書がありまして、それを参照させていただいても同様の記述がみられます。
 
It is in this sense that Pascalís statement is unconnected to a concern with truth: she is not concerned with the truth-value of what she says.(8/16page)
 
また私はおためごかしをする人を嘘という点で批判したわけではありません。だからウンコ議論を肯定的に捉えていると表明したわけです。もし指摘が全く違うなら、私にはちょっとわかりません。
上記で指摘されていることと、本記事の内容が食い違っているようにも思えません。
 
本書は以下の本でも解説があります。

 

 

世界の哲学50の名著   エッセンスを究める

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