On bullshit

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思ったこと 感じたことを そのままに

小学校のマラソン大会は禁止かルール変更したほうが良い

学生に強制するスポーツは良い影響がほとんどなく、大人のエゴ。病弱だった自身の体験をもとに語ります。

 

本記事目次

マラソン→喘息→長期欠席のループ
立ちはだかる壁は乗り越えられないもの
勝ち負けに貪欲でなくなった
競争は大切だがそれ以前の自分を認めてこそ
すぐさまマラソン大会自体をなくせということではない
病弱な子どもは自分を自嘲的に扱うことがある
乗り越えられる目標を設定し、その到達を賞賛し合えるような体育教育を望む
『世界が驚いた日本!スゴ~イデスネ!!視察団』にみる日本とフィンランドの教育意識の格差
2017/11/13追記
 
 

マラソン→喘息→長期欠席のループ

    実体験から語りたいと思います。私は小児喘息でした。家に吸入器が常備してあって、液体の薬と注射器が冷蔵庫にありました。これは異例で、それくらい重症だったわけです。
私は小学校の校舎よりも、病室の方がよく見知っています。とある病院の全ての病室を小学校時代に入院するという謎の記録を打ち立てることになってしまったのですから。医師、看護婦はみんな顔見知り。その代わり学校では人見知りでした。
    喘息は夜に苦しくなります。深夜に苦しくなって、寝ている母親に申し訳なさそうにしながら「苦しい……ヒュー、ヒュー…」と訴える。母親はイラつきながらも、液体の袋に注射器を刺して規定量を吸入器に入れる。3種類ほど入れて吸入開始。よくあることでした。数時間後の朝、病院に行くことも含めて。
    そんな時分に嫌だったのがマラソン大会。マラソン大会の練習はよかった。自分でも20番目くらいにはゴールできていましたから。しかし大会当日には本当の実力の結果ではないことがまざまざと体感することになるわけです。
みんなが決められた距離を走らなければなりません。私は中盤ほどから「ヒュー…ヒュー」と呼吸が苦しくなり、歩くしかありません。咳をして吐きそうになる。なのに最後尾の先生は「ほれ走れ!頑張れ!」と言う。
    ある時元気な友達二人が最後尾の私についてくれていた時がありました。私も少し元気が出ます。ゴール手前20メートルくらいには一緒に走り出す元気も多少ありました。しかし元気な友達には敵いません。結局私はビリから2番目くらいが常でした。
    いつものようにマラソン大会終了後保健室で寝る、母親が病院のお泊まりセットを既に準備して迎えに来る、そしていつもの病院へという流れを経験した時のこと。私の喘息は発症後から回復までが長く、1週間連続で休むこともあったと思います。それくらい休んで学校に復帰したある日、なんと同級生は自分の名前をローマ字で書いていました。私はローマ字を知りもしません。みんな天才だと思いました。私はどうやって自分がローマ字を書けないことを隠すかに必死でした。他の教科も同じです。いつの間にか知らないエリアに突入している。みんなは当たり前のように解答していく。私はその解答の意味さえわからずにプリントに写す日々。休んでいる間、何か遅れを取り戻すための「たより」のようなものがあったかは忘れてしまいました。そういえば病室では何をしていたでしょう。かすかな記憶ではレゴブロック、昆虫図鑑、ザリガニの本。それらしか覚えていません。
    これらの経験から「勝負はひっくり返ることがない」ということを学びました。どれだけヒューヒュー苦しんでも頑張っても結果は変わらないし、先生にも同級生にも理解されない。自分は体力も知力も変わりようがないんだ。これが小学生の時に学んだ真実です。
 
 

立ちはだかる壁は乗り越えられないもの

    ではこれらのことから何が言えるでしょう。それは「無理なものは無理だ。学習性無力感を無理矢理体感させられているに過ぎない」ということ。私は小学生の時、相手のことをすごいなーと思っても自分のことをすごいなーと思ったことは一度もありませんでした。自分にある可能性は何番でゴールするかではなく、ゴールできるかどうか、吐いて恥をかくかどうか、苦しい目にあうかどうかということだけでした。順位を見ても「はいはい、一緒一緒」という冷めた感触だけです。どうでもいい数字でした。この結果人生にどう影響したでしょうか。
 
 

勝ち負けに貪欲でなくなった

    私は勝負に向きません。スポーツをしていても、全力で勝とうという気力がありません。柔道をしていましたが、投げられないようにギリギリまで耐えようという気持ちが意識に上がってきませんでした。負けたくないという意思はあるものの、それが神経を伝って四肢に行き渡ることはなかったのです。技をかけて耐えられるということはこの人には勝てない。そう答えを出すようになっていました。
 
 

競争は大切だがそれ以前の自分を認めてこそ

    みなさんには覚えがないでしょうか。授業で書かされた習字や美術の作品が市町村の公民館などで入選して展示されたようなことが。私も習字や美術作品がそのようになったことはありますが、真剣に行ったものではありませんでした。遊びながらやったものです。ですからあまり嬉しくないし、何より恥ずかしい。褒められたからといって「よしこの道を頑張る!」とはなりません。競争結果が良い影響を及ぼすのは競争中に起こったこと次第ではないでしょうか。
    競争は大切。テストで良い点を取る、平均点よりも上、大会で入賞した……どれも小学生にとって良い経験であることに変わりなく、後の人生に影響を及ぼすことは多分にあることでしょう。しかしそれまでの過程がどうしようもない場合にも結果を強制的に突きつけられるのはどうなんでしょうか。
 
 

すぐさまマラソン大会自体をなくせということではない

    提案は、ありきたりだが、自分の決めた目標を達成することを目指させることです。マラソン大会では距離やタイムになります。それが結果が全てというもの。結果主義は共有・比較されるべきではなく、各自勝手に実践するべきものです。共有・比較は賞賛等が伴って初めて有効になると思います。もしそれができないならマラソン大会なんてものは消滅させたほうがいいです。でないと私のように全力を出さない子どもを一定数排出し続けるでしょう
 
 

病弱な子どもは自分を自嘲的に扱うことがある

    私の場合、競争を無駄な努力と子どもながらに悟った気になってしまうことに加えて、その出発点が小児喘息であることにも関係していると思います。小児喘息は小学生の自分一人には何もすることができません。発作が出たら親に頼らなければなりません。当時家庭環境が良くなかったせいもあり、母親は薬を多めに私に投与したり、咳をする毎に舌打ちしたりしていました。結果病院で先生に怒鳴られている母親を見ることになったわけです。薬の影響で頭がひどい痛みになっている中、横たわりながら見ていました。
    この経験がどう影響しているか。私は悩みを人に一切相談しないようになりました。先生に言っても「ほれ頑張れ」、同級生に言っても「大変だな」、親に言っても「うるさい黙れ」ですから、私にとって自分の苦しみは他言無用なものなのです。でも解決しようもないから落ち込みを通り越して自嘲気味になるわけです。「どうせ無理やってー……ほらな?」
 
 

乗り越えられる目標を設定し、その到達を賞賛し合えるような体育教育を望む

    私は喘息で小学時代を過ごしたせいで、基礎を知らずともなんとかやれる、という意識があります。まぁ今はそれが元で苦しんでいるわけですがそうなんです。喘息にさせるような運動に対して積極的に休んでいれば、学校を休むようなことはなかったでしょう。事実、呼吸があまり乱れない縄跳びは大好きでした。三重跳びも最高28回飛んでいたと思います。
 
 

『世界が驚いた日本!スゴ~イデスネ!!視察団』にみる日本とフィンランドの教育意識の格差

news.livedoor.com

 

 日本は順位を気にしてさらに努力するようになると主張するが、フィンランドの小学校校長は運動はそもそも健康のためにあると主張してネットで少しだけ話題になったもの。
 そう、なぜ運動をするのかといえばそれは健康に良いから。競うことは他のことでもできます。順位はどれだけ頑張っても上下します。マラソン大会でみんなが速くなって、全員が一緒にゴールテープを切るなんてまさか考えているんでしょうか。思うに、順位付けとは順位付けしないと区別が難しい時に用いるものです。
 私は健康上運動が得意ではありませんでした。運動はこりごりだとも思いました。そもそも子ども全員が常に努力するわけないでしょう。子どもが進んでやるのは楽しいかどうかです。
 実を言うと、柔道を始めたのは自分の意志ではありません。親に体を強くするために運動部に入れと命令されたからです。兄が柔道部をやっていなかったらバスケでもサッカーでも卓球でもよかったんです。中学1年生の時、自分は科学部などに入りたかったのです。つまり、日本の小学校側が番組内で主張していた「自分の力を知ることで努力するキッカケを与える」というのは、私にとって完全にマイナスに働き、フィンランドの小学校校長が主張した「苦手意識」が強烈に根付いたのです。
 
 最後に、話が変わりますがこの番組は好きでも嫌いでもあります。日本と海外の違いを知ることができます。しかし番組内で「すごい!」と言われていることが「無駄に細かくし過ぎで作業効率悪すぎ。こんなことして何になるの?本当に必要なの?」と思うことが多いです。いや必要なのかもしれませんが私にとってはそう思うんです。そして何よりこの番組の嫌なところは日本のやり方が正しいかのような比較表現がされているところです。日本の「しごけば光る」が「磨けば光る」に変化するのはいつになるのでしょうか。
 
 

2017/11/13追記

通勤中、地元の小学校でマラソン大会があったようだ。多くの小学生が駆けていった。
やはり最後尾の子どもは遅かった。先生と地域住民が最下位の男の子を励ましていた。
「がんばってー!」「かんばれよ!」
そばを通り過ぎる時、私は確かに聞いた。
「がんばるとか無理やって…」と言う男の子の声を。私もそういうことを吐露した記憶がある。
「どう頑張るねんクソ!」「(喘息が)苦しくならへんペースがこれなんやからしゃーないやんけ!」みたいなことを言った気がする。
 
最後尾の子どもたちを見て思った。ランニングフォームがなってない。苦しさのあまり頭や肩を上下左右に振っているし、足はドシドシと無駄に地面に打っている。
早々に苦しくなるのはフォームが悪いからだ。だが先生も地域住民も頑張れしか言ってなかった。子どもが一番真実を言っていたと、私は思う。
マラソンを授業でやるのにどうして最低限のランニングフォームを教えようとしないのか?市民ランナーの方を招けば相当改善が見込まれる。速い生徒はより速くなるだろうし、遅い生徒は自分の可能性を広げられるだろう。
 
「20年近く経つのに、まだ何も変わってないんだな」
そう思い、その場を後にした。
私のような子どもがまた生み出されると予想しながら。