On bullshit

読書感想文、社会評論、その他を自分勝手に。

思ったこと 感じたことを そのままに

知覚的見地からの「ミニマリズム」

●おかゆの美味しさ

 おかゆを作っていました。

塩を少しと白だしを入れて、出来上がり。
ほとんど何も味付けをしない料理は、とても好きです。
 
 しかし今日は気が変わって、すりごまも加えた。
するとどうだろう。
味が変わった。
ごまの味を感じて、とても厳かなごはんでした。
 
 そこで、ふと2つ思い浮かんだことがあります。
 
  1. おかゆの味の微小な変化を感じ取る味覚について。
  2. はてなブログでアップされていた、自称ミニマリストの何もない和室について。
 
 これらが頭の中でミックスされて、出てきたのは、私自身が書いた「ミニマリストとは?」という説明の補足ができそうだ、ということです。
私は以下の記事でミニマリストを考えてみました。

 

onbullshit.hatenablog.com

 

 ちなみに、私は主観的にも客観的にもミニマリストではありません。
はてなブログで初めてミニマリストという言葉を知ったくらいです。
とりあえず中立の立場だと思っていますし、もしミニマリストを否定するとしても、感情的にはなりたくないな、と考えています。
 
 そんな奴にミニマリズムを語られたくない?
そんな人には、形式的な解釈学に対して批判を行ったことがあるH・G・ガダマーという哲学者の言葉を知ってほしいと思います。

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↑(Hans-Georg Gadamer、1900/2/11~2002/3/13)
 
 形式的解釈学とは簡単に言えば、
「筆記者とその文章の思惑は、一致しない。ズレがある。私たちは解釈を展開することで、言わんとすることを明らかにしなくてはならない」
という態度のことです。
それに対してガダマーの哲学的解釈学は、
「その文章を読むのは筆記者ではなく読者だ。我々は、おかしいと思えば容赦なく攻撃すればいいのだ。それで崩れるような文章なら、それは解釈するにも足りないものなのだから。価値あるものだけ考えよう」
と言いました。
ユルゲン・ハーバーマスとの世界的に有名な論争である。
 

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↑(Jürgen Habermas、1929/6/18~)

 
 ミニマリストという言葉が書店で踊り、はてなブログ内ではミニマリストと非(あるいは反)ミニマリストが激しくキーボードを叩いています。
それでミニマリストという言葉が数年以内に消えたら、ミニマリストとは所詮、その程度だったのだ。
もし耐えたら、ミニマリズムという態度は社会に認められた価値のある思想的な何かであると言えるだろう。
ガダマーの批判を引用して言いたいのはそれである。
なので非ミニマリストの私がミニマリズムを批判するのは、ミニマリストの方々にも寄与するものだと言いたい。
 
 
 
 
 
トッピングの前知識
 さて本題に入りましょう。
私は上で挙げた自分の記事でこう書きました。
ミニマリズムとは自己表現の認知の仕方だ」
これはつまり自分がミニマリズムだと思えばそうであり、対外的には主張の一種にしかならない。
なぜならミニマリズムが行うことは、断片的には(程度こそあれ)誰もが行っていることだからだ、という意味を含んでいます。
だから私は「自称」という言葉を悪い意味では使いません。
 
 ここに薄い味と、ミニマリストの何もない部屋がミックスされて出てきた考えを、トッピングしようと思います。
 
 
 
 
 
●知覚
 私は濃い味が好きではなくなってきています。
しかしそれでも、たまには来来亭のラーメン食べたいなとか、キムチ鍋食べたいなとか思います。
刺激的な知覚を味わいたいんです。
そんな時、味の大きさ(パンチ力)、広さにビックリするのです。
こんなにも違うのか!と。
それは薄い味付けにすりごまを入れた時も同様でした。
知覚は工夫次第で変化するということです。
単純ですが、大事なことです。
 
 では自称ミニマリストの何もない和室はどう知覚するでしょうか?
おそらく頭の中では、
「何もねぇ!」
と認めるはずです。
しかし一度何かモノを置けば、すぐに
「あるわ」
と認識できます。
 
 私はこれらのことから、ミニマリスト
  • 知覚してからの意識が敏感なのではないか?
  • ミニマリズムを感じるのにモノを逆説的に必要としているのではないか?
と思っています。
なぜか?
 
 シンプルなことはすぐに慣れます。
そしてすぐに脳は無意識的になってしまいます。
知らないうちに家に着いたなんてことも、そのような脳の機能のおかげです。
 
 しかしいつもと違う物事があると、脳は動き出して、知覚し、情報を統合し、物事を認識します。
脳はそのような刺激を求めます。
 
 何もない部屋をイメージしてみましょう。
ミニマリストの方はその部屋をまるで、アート作品のように立ち入り禁止区域に指定することはないでしょう。
もしそんな方がいたら、枯山水を室内に造っているようなものです。
少なくとも自分の体を立ち入らせるはずです。
つまり自分を知覚しやすい環境へ招き入れるのです。
 
 自分だけは必要です。
あるいは一つくらい、モノが必要です。
無の空間だと強烈に感じるには、その対比となるものが必要だからです。
 
 
 
 
 
●知覚過敏型と量過敏型
 結局どうなんだ?
ミニマリズムはよく節制・節約といった部類に混同されます。
混同するも何も、要素として含むのですから仕方がありません。
これは挙げた記事でも言及したことです↓
 

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 しかしここまでくると、どうやら頑張れば区別ができるのではないかというチャレンジ精神が出てきます。
それが知覚過敏型と量過敏型です。
ミニマリズムは知覚過敏型であり、節制・節約が量過敏型です。
 

 まず量過敏型ですが、これは光熱費・物の値段・その他生活環境における物的・数的量などを抑えようとするものです。

欲張らないようにあらかじめ物的・数的量をセーブすることにより、家庭サイクルを継続的に最低限をキープしようとする規範的行動と態度です。

 
 一方で知覚過敏型も家庭サイクルを最低限に止めようとするなど、量過敏型と重なる部分を持っています。
しかし知覚過敏型は知覚的にも最低限に止めようとします。
その至高が何もない空間です。
流行りの、物が見えないスッキリ収納を好む方は知覚過敏型と言えるかもしれません。
しかし、何度も言うように知覚過敏型=ミニマリズムに当てはまるからといって、すぐさま個人が分類されることはありません。
ミニマリズムは出入り自由、自称自由。
ただし名指しはNGというフリーな概念なのですから。
 
 
 
 
 
トッピングの見栄え
 では、
ミニマリズムとは自己表現の認知の仕方だ」
というメインには、どのようなトッピングが施されるのか?
こうなります。
ミニマリズムとは自身の環境を知覚、認識した時の過敏な反応を、具体的な小あるいは無の環境下で見い出し、積極的に肯定する自己表現に乗せて、認知する仕方だ」
とでも言いましょうか。
もう下手の横好きですね。
ただ長くなっているだけのような……?
 
 私たちは知覚を通して世界を知るのであり、そうしなければ人生は限定的、暗いものになります。
しかし知覚的に情報が乏しい環境を造ろうとするミニマリズムは必ずしも暗い結果にはなりません。
なぜなら当の本人たちは、ミニマリストとして自己を了解しているからです。
 
 
 
 
 
●終わりに
 社会が拡張されて、様々な欲が私たちを取り巻くようになりました。
3大欲求が盲目的になるほど、社会的な欲求です。
しかもSNSによって欲求がシェアされるという時代です。
社会的な見地からして、私たちは気に入らない欲求を持った集団を排斥して、何事もなかったかのように、気に入る・気に入らないとは無関係の大衆へと帰っていきます。
 
 私はミニマリズムという理解ができない考えや、ミニマリズムの正否論争よりも、それらによって並んだ汚い言葉の弾幕よりも、上のような必殺仕事人的現象のほうが恐怖だと思っています。
まるでウィルスが潜伏期間を経て、発病したのを発見するや否や、殺菌するかのようです。
 
 個性は大事です。
立派にそれを育てる前に、ネットで縛り首にならないように願います。
ミニマリズムがどうであろうと、ガダマーの言うように、言論にも弱肉強食・自然淘汰という節理があるのですから。

 

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