なぜ、無意味そうな「ランキング」が多いのか
記事目次
●序列の多さ
●ランキングの性質
●各あてはめ
●必要性を感じないものもある
●必要だと認識するための外部記憶
●原始時代
●私たちは集団で世の中を生き抜いている
●最後に
●序列の多さ
城ランキング、住みやすさランキング、日本の観光地ランキングベスト10、本やCDの売上ランキングなどなど。
多くない?と思っています。
売上ランキングは単なる数の積み重ねですから、
序列にすることに不思議はありません。
しかし他はどうでしょうか?
数値的序列はないように思えます。
もちろん役立てている人もいると思います。
ランキングにする理由があるのかもしれません。
それでも私は、城とか観光地とかは個人的な嗜好によるものなのですから、
わざわざ第三者に勝手に決めないでほしいと思っています。
どうして私はそう思うのでしょうか?
稚拙ですが、考えてみました。
これもOn bullshit(ウンコな議論)だということで、お許しください。
●ランキングの性質
思うに、ランキングやトップ、ベストというものは、必然的に優劣を含んでいます。
また、その優劣が順位的にはっきりすれば、
視覚的にもそれ自体を確認することができます。
これは人に上昇志向を喚起させます。
上へ上へというわけです。
すなわち、ランキングを用いる場合は、上昇志向を性質として含むものでなくてはなりません。
●各あてはめ
たとえば、本やCDの売上は上昇させることが可能です。
これは上昇志向を含むと言って差し支えないでしょう。
では城や観光地はどうでしょうか?
城は数字的な何かを算出して、序列にすることができるでしょうか?
築城後何年なのか、そのような期間を区切ることによって導き出せる数字は序列にできます。
これは本やCDでも同じことが言えます。
しかし城や観光地などにおいては、そのようなランキングを見かけたことがありません。
歴史的、文化的、自然的、建造物的な価値判断がほとんどだと思います。
●必要性を感じないものもある
これらの価値は上昇志向があるでしょうか?
新しい発見によって注目されているなどであればわかります。
しかしそれ以外となると、必要性を感じません。
それでもあるということは、何か理由があるのでしょう。
私は現実的・具体的な答えは示せそうにありません。
●必要だと認識するための外部記憶
その代わりに、理想的・抽象的な答えに思い当りがあります。
ここからの一文を引用します。
私たちの社会は、外部の記憶装置を、集団的かつ制度的につくりだしている。社会のなかで集団的に記憶を保持する方法として、図表や指標、文字、絵画、彫刻、写真、都市建造物、記念碑、映画などがあり、私たちは集団的に記憶を保持している。(P68)
これはあてはめられるのではないでしょうか?
つまり、ランキングという尺度は形式的にしか利用しておらず、記憶するための便利な指標として使っているということです。
ここで疑問が湧きます。
どうして私たちは、そのような外部の記憶装置に頼るのでしょうか?
●原始時代
ここで一度、古代の話に寄り道します。
古代を学ぶ利点についてです。
たとえば、これです。
gigazine.net
これによれば、夜のたき火の明かりには想像力をかきたてる効果があるそうです。
これにより、物語はたき火とともに生まれたといいます。
また、これは聞いたことがあるかもしれませんが、一般に男性が論理的であり、女性が話好きであるといいます。
これは狩猟時代に狩りをしていたのは男であり、住居にいて周辺の情報交換をして、身を守っていたのは女であるという話によります。
では話を戻します。
●私たちは集団で
世の中を生き抜いている
なぜ古代の話にしたかというと、似た話を導入するためです。
古代であれば、狩りをするにも、情報交換をするにも、何か目印が必要です。
集団がそれを記憶している必要があります。
現代にも、このような生活をするために記憶する遺伝子が伝わっているのかもしれません。
私たちは待ち合わせをするときに、特徴的な物を目印にします。
そして会話をするときには、お互いが共有できそうな話題を探ります。
知らなかったら、知ろうと努めます。
共有しやすい形式として、ランキングが選ばれているのではないでしょうか?
そう考えると、城や観光地はいつか自分が訪れるかもしれない場所です。
これは狩猟時代から考えても合点がいきます。
このようなわけで、ランキングは何かしらの役に立っているのではないか、と予想できます。
●最後に
そして、ここまで流れで書いていて、気づいたのですが、
これを読んでくださった方のためになるかといえば、絶対ないなと思いました(笑)
すみません。失礼します。