ライティングと現代社会について
ニートに近い生活をしている。
クラウドソーシングをしている
そこでライターとして日銭を稼いでいる。
そんな日々で思うことがある。
●「ネットは広大だわ……」
随分と情報が安くなった。
ネットで検索して得た情報を、まとめブログ風のサイトに合うように改変して載せるだけ。
それでお金がもらえる。
インターネットが普及しだしたときは一般人が入り込む余地はなかった。
プログラミング言語しかなかったからだ。
それが今や一般人が主役となっている。
●単純化か?総体化か?
ほどよく硬派な文章が求められる場合は、
ほとんど一発でクライアントから承認される。
文章の修正を求められるのは、軽い文章を書いた時だ。
「もっと軽い感じで」
「友達に話す感じで」
「1行は20字以内で」
私はこのネットに溶け込ませるための反応に対して、
なんとなく危機感を抱いている。
それは「文章が簡単すぎる」ということだ。
論理的に連結した文章を解体して、ようやくネットに載せる。
単語も変更することになる。
確かに難しい文章をネットの画面で眺めることは大変だ。
ある程度の漢字をカタカナやひらがなにしたり、
文字列を段落ごとに区切り、1行だけ改行して空間を空けることによって読みやすくするというのは、親切心だ。
これは視覚的な問題だ。
しかし、
・内容まで簡単になってしまうのは、感心しない。
難しい内容が書かれている、含蓄のあるページは読まれず、浅はかな内容のページが読まれているというのは如何なものか。
・1つの文章を短くしようとすると、どうしても専門的な言葉・単語を省かざるを得ない。
誰でも知っている言葉は大量の経験からくるイメージによって理解しやすい。
しかし長期間の積み重ねによって厳密に定義された、専門的な単語を分解して一般用語に構成し直すということは、誤解を招く確率をアップさせる。
分解・構成をする個人や集団のバイアスに頼ることになるからだ。
これを問題だとして、どういう原因があるだろうか?
書く側の異常なサービス競争だろうか?
読む側の異常なサービス要求だろうか?
それとも民族性や資本主義がある社会がそうさせているのだろうか?
この問題を表現するキーワードは何が適切だろうか?
行き過ぎたサービスによる、「単純化」という問題だろうか?
それとも社会全体が均質に向かうために起きている、「総体化」という問題だろうか?
知恵遅れなのでそれくらいしか思いつかない。
●現代哲学に頼る
今生きている人が考えている哲学はすごく面白い。
昔の哲学がわからなかったら、現代哲学から入るのも十分有効だと思う。
私のブログ名『On bullshit(ウンコな議論)』(2005年)(著者:ハリー・フランクファート)も現代哲学の著作の1つだ。
わずか数十ページなのに、現実問題に切り込んでいて面白い。
現代哲学は現実問題を豊富に扱っているので、理解が初めから進むものが多い。
今回、私の愚痴にも似た問題も、現代哲学に頼ってみよう。
●システム1とシステム2
『Thinking, Fast and Slow(ファスト&スロー―あなたの意思はどのように決まるか?)』(2011年)がある。
これを書いたダニエル・カーネマンさんは心理学者でありながら、プロスペクト理論(不確定性下の意思決定)によってノーベル経済学賞を受賞した人です。
この著作も心理学研究としてのものです。
これによれば、思考には2種類あるという。
それがファストアンドスロー。
・早い思考(ファスト思考またはシステム1)は無意識の思考。
何も考えずに運転することがそれ。
・対して遅い思考(スロー思考またはシステム2)は意識的な思考。
運転しながらどっちに行こうかと考えることがそれ。
これを手掛かりにする。
この理論と私の問題のあてはめ方が合っているかはわからない。
理論も使えなければ意味がない。
早速ずれた使い方をしたが、やってみよう。
まずシステム1の思考は情報の多寡を気にしないシステムだ。
少ない情報からでもすぐに結論に達する。
対してシステム2は大量の情報から論理的に決定することを求めるシステムだ。
とすると、ネット上の情報量の少ない文章を上げ続けるサイトは、
どうしてもシステム1がフル稼働するし、
システム2を稼働させるには足りない代物になる。
カーネマンさんは「利用可能性ヒューリスティック」というものを掲げた。
ヒューリスティックとは問題解決に役立つもの、という意味合いだ。
つまり利用可能性ヒューリスティックとは、
問題解決に利用できそうなものは何でも利用する、というものだ。
これがシステム1に組み込まれていると言う。
つまり、システム1しか働かないような情報だと、
利用可能性ヒューリスティックが起きやすい。
●結論
そうすると、つまりこうだ。
私たちはネットを利用することで、問題解決を急ぎすぎている。
さまざまなことがネットでつながり、問題解決のスピードが上がった。
問題解決に必要な要素―人と物―が減った。
最悪、自分とパソコンがあればいい。
これが問題だ。
スピードを求めるあまり、システム2が稼働しない社会になっていないか?
個人レベルでは両方のシステムが稼働していると思うが、
集団になった途端、直感的思考ばかりになっていないか?
これは総体化というより、単純化のほうが正しそうだ。
自分の良いように解釈したかもしれないが、このように思うんだ。