無味乾燥した商業チックになった本について
●イントロ
随分前になるが、兄が買っていた……東野だったっけ?を読んだ。読む速さにびっくりされていたが、そりゃぁあれだけスカスカな文章なら当然だろうと思った。思っただけで言いはしなかったけど。
あれが人気で書店を賑わせていることは確かなのだし、あのようなものでも本は本。読書する人が増えるのであれば招待すべきだ。とはいえ、あれは小説の極々一部分の魅力でしかないということを知らしめたい。ここで書く文章はそういうものだ。つまり私なりの「小説とは何か」を問う。
●つまらない小説について
まずあのような小説がつまらない理由はいくつかある。以下の3つだ。
①ミステリーのゴールまで一直線すぎるプロット。
②様々な描写のなさ。
③個人的に読んでいなかった。食わず嫌いだった。
③は全く自分勝手な理由だ。村上春樹を読みもしないでただのセックス三昧を描く小説家だと見なしているのと同じだ。なのでここでは語らない。語るに値しない酷い理由だからだ。
しかし①と②はそれなりの理由がある。
まず①について。この小説を読んですぐ気付いたのが、
・寄り道がない。初めに事件解決というゴールが設定されたかのようなプロット構成であり、そこへただただ向かっていく。よって文章に言われのない強制力を感じる。読者に自由を与えない。故に読者個々人が感じるべき抑揚的起伏がない。出来事があっても動じることができない。
次に②について。これも読んでいてまずいと思ったことだ。
・登場人物の描写がほとんどない。
登場人物の人生、外見、性格、感情、心理、思想などといった描写がない。死んでる。登場人物に対して全くイメージが浮かばず、少しもリアルを感じない。
以上が理由だ。
●小説は小説、商品は商品
これはある意味、群像劇的な演劇と言えなくもない。その目的を把握していないと楽しむことができないような、そんなものだ。
しかし群像劇は一般的には難しい演目だ。多く現われる人物一人一人のキャラクターを引き立てなければただ騒がしい演技になるからだ。やはりこの小説は何にも例えられない。
この小説がどう味わわれているのかを表現する比喩はこうだ。
ワンホールケーキがある。小さく切り出してもらって最初の一口を食べる。
「なるほど美味しい。とすると目の前にあるワンホールケーキも同じ味だということだな。ということはもう十分だ。ご馳走様、もういらない」
そうじゃないだろ。食べて美味しいと思うならおかわりしよう。少しクドいと思ったなら、フォークを置いてジュースを飲め、人と談笑しよう。そうやってワンホールケーキをゆっくり消化していくんだ。そして食べ過ぎてお腹を下す(笑)
どちらがよりケーキを知覚し、記憶し、思い出となっていくかは明らかに後者だ。小説とはそういう楽しみ方ができる最高に無駄な食事なんだ。
それをわざわざ、削ぐということはあの小説は小説の試食のようなものにしかならないのだ。
●どうすればよいのか
しかし理系人間にはあのような理路整然としたものが好まれることは必至だろう。だから兄には理系が好むと思われる歴史的名著を勧めたい。私が持っている本の中では、マイケル・ファラデーの『ろうそくの科学』、メンデルの遺伝の法則を述べた論文『雑種植物の研究』、ブルバキの『数学史』といったものがいいのだろうか。
それにしても商業に飲み込まれた小説は悲惨だ。あそこまで無味乾燥なら小説とは言えないのではないか。
「ドラマの台本みたいだ」と思ったのは読み終えたときの感想だ。あのようなものが一番多く売れる国と買う人を憂う。