On bullshit

読書感想文、社会評論、その他を自分勝手に。

思ったこと 感じたことを そのままに

読書は鎮痛剤

    慢性疲労や精神的な衰弱、未来に対する不安、イラつきなど、精神状態が安定しないというのは現代病にまで進化してしまいました。いろいろ栄養素を摂れとか、運動しろとか、単に休めとか対処法は書籍・雑誌・ネットの海に、まるでマイクロプラスチックのように漂っています。

 

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本、読み終えた。へルマン・ヘッセ『春の嵐-ゲルトルート-』

 

春の嵐―ゲルトルート (新潮文庫)

春の嵐―ゲルトルート (新潮文庫)

 
春の嵐 (1950年) (新潮文庫)

春の嵐 (1950年) (新潮文庫)

 

 

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個人的に精神が異常なときの症状

みんなは精神がおかしくなっちゃったときに感じることはなんですか?

私の場合を箇条書きにしてみますね。

 

 

勝手に涙が出てくる

  • 仕事休憩中のご飯のとき
  • 勤務が終了して仕事場から離れてしばらく経ったとき
  • 仕事から帰宅したとき
  • 仕事から帰宅後のご飯のとき

    これらのときに涙が出てきます。仕事のときしかこの症状は出ません。

 

 

幻聴

  • 職場の人の声「〇〇君!」
  • 知らないおっさん「おい」
  • 自分の声「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね(以下略)」
  • 親の声「〇〇ー!〇〇ー!」
  • 職場の人の声「汁!」←入れろということ
  • 鳥の鳴き声が、ラジオから漏れるようなおじさんDJに聞こえる

    以上のような幻聴を経験しました。初めは幻聴かどうかもわからず、家に職場の人が来たと思って家の周囲を探したりしてました(笑)

誰かに確認してからでないと現実の相手が言ったかどうかわからないです。

 

 

吐き気

  • トラウマになった対象を見たとき(私の場合は仕事で使っていた車)
  • 仕事に行く前の洗面所

    以上のときに吐き気がありました。朝やることはまず会社の制服に着替えたあと、洗面所の前で土下座スタイルで激しい吐き気を押さえることですね。家を出ると治まるので不思議でした。

 

 

ボーッとする

    前頭葉が機能していない感じが強いです。なにかを読んだり、計算したりが上手くできません。短期記憶も弱くなりました。どんなに小さいことでもメモが必須です。

    眠たいです。一日にできる行動がよくて2アクションです。

 

 

(人生が)いつ終わるかな?とか考えてしまう

    孤独な人の寿命は短いと言いますし、いつ終わるだろうか?ということを考えることがあります。でも自殺はしたくない。「あの山登りたいな」とか「あの魚育てたいな」とか、やりたいことがあるからです。

    そこで都合?の良い希死念慮に行き着くわけです。不謹慎だし、当事者や関係者の方には大変申し訳ありませんが、事故や病気なら真っ当な死因だと思ってしまうのです。私の家系は一方は癌、もう一方は喘息と糖尿病ですからあるいは……と。

 

 

気を付けたいこと

・日を跨ぐ前に寝る

    不眠は一度夜更かしすると長引いて、アトピーも急激に悪化します。なるべく0時には寝るようにしています。

・体を動かす。日を浴びる

    健全なる精神は健全なる肉体に宿る、というのは逆転させても成り立つと思います。家庭菜園や生物観察、登山、ジョギングなどで体を動かしています。

    特に登山は自分の人生に大きく寄与しています。一人になれるし、景色はいいし、動植物を観察できるし、とにかく足を動かすのが正解でなにも難しくないですし。

 

まぁ、とりあえず、仕方なく、やっていきましょう。

スポーツで暴力行為は結構普通にある。

    現在、日大アメフト部の悪質なタックル行為問題が世間を賑わせています。柔道部だった経験から私見を語りたいと思います。

 

前提として、暴力行為は普通に経験する

    どのようなスポーツにも反則レベルのことをやる選手は存在します。柔道ではこんなことがありました。

 

・足払いがただのローキック。

    しかも執拗に同じ箇所を攻撃する。試合後、内出血して腫れているのに気付く。これは柔道の技ではなく、総合格闘技になっている。しかしそれで試合を止めることはできない。なぜなら技が上手いかどうかなども考慮にはいるためだ。

 

・寝技をかけているように見えて、総合格闘技のように頭部に打撃を加える。

    寝技では相手の襟の近くを持つことは有効だ。仕掛けられている側の選手も当然持たれないようにガードする。無理矢理ねじ込むことはあるが、明らかに打撃を加える意図も含めたねじ込み方がある。それは拳を丸めて、グーの状態でスピードをだして突っ込む行為だ。頭が揺れるのでガードが甘くなる。

    これも明らかに暴力行為と受け取られない限りは、試合を止めることはできない。

 

・立ち技中に相手の胸襟を持ちつつ頬を殴る。

    柔道では通常、相手の胸襟と袖を持って技をかける。しかし胸襟を持ちつつ相手を殴る行為は可能だ。何故なら胸襟も袖も持たれると、技をかけられる。そうさせないために振り払うことは普通にある。客観的に見れば殴る行為と振り払う行為との線引きが難しいからだ。

    ちなみにこれをされた私はぶちギレて、全体重を乗せた払い腰をかけた。相手の腹にぶつけたものだから、ボクシングで例えると全力のボディブローをしたような力が加わっただろう。相手はしばらくうずくまり、苦しんでいた。私は黙って見下ろしていた。審判も、黙って見下ろしていた。わかる人にはわかるのだ。

 

    ただ、感情が高まるとスポーツとしての技なのか、ただの暴力なのか区別がつかない場合があります。だから誰もがスポーツと暴力を行来したことはあると思います。

 

監督や顧問からの「精神言語」と表現方法

    スポーツにおいて声かけと技術的指導は解離があります。海外では「アゴを引け!」など具体的な指導が多いと聞きます。体のパーツ毎に指導をした方が成長が早く、「腹から声出せ!」のような現実と違う表現方法による指導だと成長が遅いというのが明らかになっています。

 

    そしてもうひとつ指摘したいのは、上記に平行して言語表現です。すなわち、伝えたいことは同じでも

  • 「ギュッと押さえつけろ!」
  • 「窒息死させるくらいでやれ!」

と言われれば、力が出やすいのは残念ながら後者なのです。なので「壊してこい」ではなく「壊すくらいの気持ちでやれ」には相当な解離があるのです。もちろん後者はスポーツ界ではどこでもあるように思えます。

    こういった言葉がニュースになると恐ろしいことに聞こえてしまいます。日大アメフト部の場合は指示という形で伝えているので問題なのです。だから前監督も檄を飛ばす形で言ったという方向に釈明をするのではないでしょうか。

 

私はコミュ障か?

パソコンの調子が悪いので携帯からそっけない構成で書きます。


コメントにて「あなたはコミュ障じゃないの?」と聞かれました。
「そういえば私はコミュ障なのか?」と思い、ちょっと自省してみたいと思います。

学生時代(前半)

小学校~高校時代はコミュ障とは無縁だったと思います。
小学生の時は自分の生物好きが高じて、自然探勝部なるものを設立しました。部員は20人くらいだったかと。探勝とは言うものの、活動内容は学校周辺の生き物を捕まえまくって時間になったら報告し合うという、好きなことをただ前回でやるものでした。
ただ当時は父親の酒乱&DVでマトモな家庭ではなかったので、切れやすく危ない奴認定も受けていました。肩がぶつかるだけで誰彼構わずボコボコにしていました。まるでモーセが海を渡った話のように、私が廊下を歩くときは、みんなが左右の端に逃げていったのをハッキリと覚えています。
その足で向かっていたのは体育館裏。告白なんてできる状態ではない、雑草だらけだったそこは生物と私だけの世界でした。
そんな私にできた友達は生徒の中の階級では最上位の奴らともつるんでたように思います。ほら、小学生の時って強い奴は人気でしたでしょ?

中学では小児喘息を治すという理由でなんとなくカッコよかった柔道部に入部します。
元々喧嘩で暴れて家庭内の憂さ晴らしをしていた私は、柔道では暴れても怒られないということで柔道が好きになっていました。
数学や英語が赤点になっても「補修?そんなの知るかバーカ!そんなことより柔道だ!それが終わったら友達連れてゲーセンでレースゲームと音ゲーだ!」という感じでした。
中学の時もつるむ友達は交友関係は幅広かったですね。学校カーストが上の奴とも面識がありましたし、アニオタとも友達でしたし、女子とも中が良かったですね。中学でも高校でもメールアドレスには
女子だけで少なくとも10人くらいはいたはず。
中学・高校はクラス全員が友達だったと言っても差し支えないくらいでした。

学生時代(後半)

そんな友達ウェーイな、広範な人間関係が終わるのは、それぞれが独自の進路を辿る高校卒業後。とある専門の短大に入学します。お茶を濁しますが、高校時代にある出来事がありまして少し精神状態がおかしくなり始めていました。
短大でも一緒に旅行するくらいの友達は複数できました。でも短大は中途退学します。
精神状態も退学理由ですが、もっと大きかったのは「面白い学問いっぱいあるじゃん!」という理由。

「四大に入学したい」

それから生まれてこの方、開いてこなかった文学作品や文化人類学、歴史、哲学、民俗学民族学とかを貪るように読みこなしていきます。この頃には駿台の筆記模試で偏差値60くらいをマーク。赤点の答案を笑って紙飛行機にしていた自分が懐かしい(笑)
で、とある四年制大学に入学した私は、それまでの浅い読書経験により「学問を話し合える人がほしい。そうじゃなかったら全員糞」
うーん。こじらせています(笑)
キリスト教と仏教に詳しい教授の研究室は本当に楽しかったです。国際シンポジウムにも連れていってもらえました。打って変わって、交友関係はとても狭かったです。よく話す人は4人だけ。友達という表現も適切とは言えません。なんちゃってボッチが適切です。
昼ご飯はほとんど一人。講義もほとんど一人で受講。時間があれば図書館で哲学や政治学、法学、犯罪学などを読み漁りました。時には閉館までね。

躊躇いのない交友関係の切断

短大に入学したとき、中学・高校の友達とは連絡がほとんどなくなりました。退学したときは、「ちゃんと勉強しなくちゃ」とアドレスを家族もろとも一旦消去。大学卒業後も大学で手に入れたアドレスも全消し。バイト先を辞めれば全消し。
このように何故か全消ししてしまうようになってしまいました。「その時に仲良くしてればおk」という……。薄情になってしまいました。わかり合えなかったら終わり(笑)

趣味

登山と生物観賞とランニング(トレラン含む)です。ですが、これらの良さを理解してくれる人が回りにはいつもいませんでした。
年を重ねる毎にみんな携帯で連絡し合ったりとか、友達とどこに行くと話したりとかになり、言動がシンクロすることはなくなりました。
映画『スタンド・バイ・ミー』で友達がレストランの客のように入れ替わっていったと話すくだりがありますが、まさか本当にそうなるとは夢にも思っていませんでした。
一人でも楽しめる趣味しか持っていない私は、その趣味の領域で、例えば登山中に話しかけられれば受け答えもしますし、会話を少し広げます。でも自分から話しかけるようなことはほぼ皆無です。

自分はコミュ障なのか?話題的コミュ障

コミュ障にも種類があると思っています。話題を類型化してみます。

1、内輪話
たとえば登山をお互いにしていて、登山をしていないとわからない話題。趣味や業界といった限定的な話。家族や親戚にしかわからない話。コミュニティ外には通じない話。

2、社会的会話
保険や年金に加え、性的な話(ラブホの場所とか)そしてお酒の蘊蓄といった全ての人に当てはまる話。つまりは古くから歴史を動かしてきた物事に関する話題になります。

3、お遊び
学生の頃のようなフザけた会話。生産的ではなく笑うための会話。

実際には上記の1~3が入り乱れるのですが、私には2と3が圧倒的に足りません。なので現在では会話が合う、長く続く人はほとんどいません。
3は中学・高校ですごくありましたし、自分でそういう話題を振っていました。具体的にどれ程受け入れられていたかというと、アレです。

・集団で歩いていて靴紐が解けたから結び直すとき、みんな待ってくれている。
・「お前が来ないなら俺も行かない」とか言われる。
そんな感じです。

自分はコミュ障なのか?精神的コミュ障

コメントをくださった方はおそらくこちらの方の意味で聞いたのではないかと思います。
つまり、全く知らない人に話しかけてすぐ仲良くなるような、そういう特殊能力。そしてそれを行える精神力。
「店員に話しかけるのもダメ!無理!」みたいな。そういう意味であると汲み取ると、今の私はたぶんコミュ障になりにいってると言えます。
自分で何とかするのが基本的に正しいと思っているので、なるべく人を頼りません。だから店員に聞く前に自分で勉強して来店するか、その場で商品パッケージやパンフレット、携帯などで解決しようとします。
どうしても必要なら話しかけます。
高校の自分なら知らない人に「飴いる?」とか話しかけていましたから、それと比べるとすごい落差です。
その結果どうなったか。

「好きな会話、必要な会話以外したくなくなった」

相手の趣味の話を聞くのは大いに楽しいです。でも興味がない話題だとわかれば「あーだりぃ~」となります。これは全ての人が抱くことです。でもそういう状況にならないようにしたいという思いが強いです。会話をすぐに切り上げたい。

自分はコミュ障だと思いますよ?

面接とか基本的に行きたくないですよ。知らない人と話すなんて怖いですよ。
でもやりたいことがあって、それには金が必要なら人と関わらないといけません。できればブログや株とか不動産で稼いで、人と関わらないで好きなことをやって、それを理解してくれる人とだけ関わりたい。
でもよく考えるとブログや株とか不動産も人関わった方が金稼げるんですよね。アパート経営も次から次へと変な人が来ますしね(親族が経験あり)

最近思うんです。
どうしてコミュニケーションという言葉があるのか。もちろん学問の対象であるからですが、それを抜きにして考えると「社会ではやらなくちゃいけないことだから」だと思うんです。
でも気弱だからできない。それもわかります。私も駅員に話しかけるのに5分くらい迷ったりしますから。
人に話しかける必要があるのにできない。それはコミュ障です。仕方なしで話しかけられるのはコミュ障ではありません。
上記では自分はコミュ障だと書きましたが、それは自分の理想が「誰とでも仲良くなれる」ことだからです。
一旦自分がコミュ障なのか振り返ってみてください。もし他人に一切話しかけられないなら、精神的な問題です。
そうでないなら、どういう会話が自分にはないのかみてみましょう。

登山とカメラ、酒が趣味でとんでもなくアクティブで、誰とでもすぐ仲良くなれるおじさんを知っています。その人は知り合いに合うと必ず「おー」と挨拶します。
「お風呂行くの?」とか「今日は晴れたね」「曇りだからあんまり(撮影しても)映えないね」とか他愛のない話をします。で、2~3ほどの会話の応酬をするとすぐ「おっす!」とか言って立ち去ります。
何が言いたいかと言うと、見たらわかるだろという当たり前のことでも言葉にしているんです。そしてそれを手短に伝える。見習いたいです。

私は町中で「晴れたね~♪」「寒いねー」とか言ってるのを覚めた感じで見ていることが度々ありました。ある種の侮蔑、軽蔑を込めた感じで……。
あなたは大丈夫ですか?
そうなっていたらヤバイですよ。
心の中で「そうだね。晴れたね」と思うだけでもいいですよ。
いつか「コミュ障じゃない。会話が嫌なだけ」って思えるように、一緒になりましょう!一緒に!それはそれで問題ですけどね(笑)

追伸

・転職を成功させていると言ってもバイトですよ。正社員の経験は一回しかありません。社会人的な価値で見れば灰燼同然です。
もし事務の仕事を志望する形で応募して採用されたなら、私よりも絶対に優秀な人です。でも事務は事務で外に行くことがないわけですからコミュニケーションが面倒くさそうですね(笑)
外回りの方が常に同じ人と同じ空気を吸うことにはなりませんから、初対面の人には結構話せるけどそれ以降は……という人には向いてるかもしれません。
でも事務はその代わり時間変動(残業とか急な依頼)があまりないわけですから、楽。そこが悩みどころですよね。どっちをとるか。
どうにせよ事務の経験は絶対生きます。あなたの悩みも無駄じゃないですよ。


・次の仕事は登山関連です。でも自分の発達障害的な能力(数を数えるのが苦手、覚えが悪い、フローチャート式のマニュアルがないと役立たずなど)によって、吐き気と幻聴に悩まされて退職してしまいました。(退職が)早すぎるので、現在は「ハズレを引いた」と思って違う場所に応募しようと選定中です。